中川淳一郎氏はこういっている。
「私は『ネットニュース編集者』を名乗りつつもスマホは持っていない。パソコンで仕事はするが、それ以外の時に誰かとつながっていたくもないし、常に追いかけられている状況がイヤなのだ」(『捨て去る技術 40代からのセミリタイア』集英社インタンーナショナル新書)
わたしには正しい感覚だと思える。「追いかけられている状況がイヤ」ということは、中川氏はガラケーも持っていないということなのだろう。
仕事でスマホを使っている人はとりあえず別にして、それ以外の小中高大の学生や一般人にとって、スマホはどんなメリットがあって使っているのか。とくに高齢者にはどんなメリットがあるのか。
スマホを持たないわたしみたいな人間には、学校でのいじめの温床、SNSでの誹謗中傷、闇バイトの募集や、出会い系サイトなどで犯罪に巻き込まれる危険性などなどのデメリットのほうが、メリットをはるかに上回るようにしか見えないのである。
けれどスマホを使う人は、そもそもメリットとかデメリットなんかどうでもいいのだろう。ひとはそんなことをいちいち勘案して、物事の是非を決めるのではない。もしかしたら高齢者は、メリットばっかりだよ、というかもしれない。
子どもたちがスマホを手放すときとは
高齢者の携帯電話のことなどどうでもよかった。「高1」の娘さんに関する相談だった。
回答者は高橋源一郎氏だが、かれもスマホを持っていない。しかし「便利なことは知っています。それが恐ろしいのです」といっている。どういうことか?
いまの社会はスマホの「存在を前提にして設計されようとしている」。だからスマホなしで「生きてゆくことは難しいでしょう」。
実際、スマホがないために「不自由な目にあうこともある」と高橋氏はいう。「けれども、その圧倒的な利便性の故にこそ、わたしたちは多くのものを失いつつあります。気づかぬうちに」
気づかないんだから、なにを「失いつつ」あるかはわからない。そしてたぶんスマホ愛好家は、そんなものは失ってもかまわないと思っている。
「子どもから『スマホ』を奪うことはできません。それはもう必需品の一つだから」。子どもたちがそれを手放すことがあるとしたら、「それよりもっと素晴らしいものがこの世界に存在しているのを知るときだけ」だという。
子どもたちにとって、スマホが「必需品の一つ」というのは、学校からの連絡がスマホを通してなされる、といったことを指しているのか。それとも子どもたちの社交において「必需品」になってるということか。