歴史家の乃至政彦氏の新刊『戦国大変』が反響を呼んでいる。
「戦国の風景と感覚を見えやすくする」と語るとおり、「桶狭間の戦い」「関ケ原の合戦」などその名の知られた戦から「大寧寺の変」「姉川合戦」など歴史の教科書ではなかなか触れられることのない合戦まで、一次史料をもとに「新しい解釈」を提示している。
今回はそんな『戦国大変』について読者から寄せられた質問を、筆者・乃至政彦氏に聞いた。
問い 「水原祢々松×長尾為景 なかったことにされた女当主」というテーマについてお尋ねします。戦国時代という戦が中心となるときに「女当主」が生まれた背景にはどんなことがあったと推測されますか? また祢々松はどうなっていったと思われますか?
戦国時代の「跡継ぎ」問題
『戦国大変 決断を迫られた武将たち』で、水原祢々松(すいばらねねまつ)を取り上げました。
祢々松は女性で、戦国期における「おんな城主」の走りともいえる人物です。
基本的に、戦国時代には「おんな城主」というのは、ほとんどいなのですが、祢々松以外にも、女性でありながら城を統治するという立場になった女性もいます。
戦国期の城には、基本的には、城主がいて、配下がいます。城主様というのは、お家のご当主様で、家督を相続した人たちです。
なぜ、本来、戦場に行くわけではない女性が、ご当主様になって、跡目相続をしたのでしょうか。これは戦国時代に頻発する、戦死(戦いで、急に死んでしまう)の問題と関係しています。
水原祢々松の生きた戦国時代は、江戸時代のように、ご当主様が急に亡くなった場合に、事前に跡継ぎを定めていなければ、「アナタの家はお取り潰しですよ」というルールがありませんでした。
国には、守護などの御屋形様がいて、御屋形様の言うことを聞く配下(国人領主=国衆)が、大勢いたわけです。
その人たちが、急に戦死あるいは病死した場合、(祢々松の時代の)御屋形様は、はっきりとした掟を定めていませんでした。ただ、そうなると、非常に厄介なことが起こりはじめます。
たとえば、水原祢々松の父親が戦いに参加して、戦死した時には、祢々松の父親と一緒に亡くなったご当主様や、城主クラスの人たちがいました。
しかも、この戦いでは、水原家の御屋形様である越後国守護の上杉房能(うえすぎふさよし)が腹心としていた守護代も戦死してしまいました。その跡を継いだ守護代は、長尾為景(ながおためかげ)という非常に若い人物でした。
この長尾為景は、御屋形様との折り合いが、あまりよくなかったようなのですが、そんな為景を担いで、「次の当主を誰にするか」を画策する家が、いろんなところで出てきそうな雰囲気になったわけです。
守護代である長尾為景を頼るか、御屋形様の上杉房能を頼るかということで、越後が分裂する兆しが見えはじめました。
こういう事態になると、「弟に家督を継がせればいい」という人もいれば、「息子に継がせるべきだろう」という人も出てきます。
しかし、水原家には、弟はいても、息子がいませんでした。そんななか、「娘がいるじゃないか」ということで、ご当主様に担がれたのが、水原祢々松だったのです。
普通だったら、武士として戦場に行くのは男ですから、ご当主様に女性を担ぐというのは、御屋形様からすると、「なるべく遠慮してほしい」となる。しかし、ご当主様になるべき適切な人物がいないのであれば、「仕方がない」ということで、水原家の場合は、祢々松が当主として認められました。
こういうことがあって、少しずつ戦国時代の意識が変わっていくわけです。そして、次第に、いろんな大名が、各地で「分国法」を作って、「家督相続については、あらかじめしっかり決めておきなさい」ということになっていきました。
以後、家督相続のルールを決めていないところでは、急な病死や戦死があった場合に、「お家を取り潰す」もしくは「領地をいったん没収する」という決まりになっていきます。
こういうことを繰り返していき、戦国の仕組みというものが、作られていったわけです。