岡崎公園の徳川家康像 写真=アフロ

(歴史家:乃至政彦)

 戦国時代における重要なテーマについて『戦国大変 決断を迫られた武将たち』 を発売し注目を集める乃至政彦氏。今回は大河ドラマ「どうする家康」で、妻子を亡くした家康が変貌する姿から、歴史人物の「覚醒」について考察する。(JBpress)

フィクションの家康から歴史人物の家康へ?

 徳川家康単独を主人公とする40年ぶりの大河ドラマ『どうする家康』もいよいよ本能寺の変が近づいている。

 さて、これまで家康は臆病で決断力の鈍い大将のように描かれていたが、ここに一転して「致される」側から「致す」側へと変化しつつある。周囲から戦略を仕掛けられる受動的な人間ではなく、自ら能動的に仕掛ける側になろうとしているのだ。

 脚本的には、正室である築山殿と嫡男だった松平信康が不幸な犠牲となったことがトリガーとなって、織田信長への憎悪を募らせているようだ。

 一年かけて主人公の一生を描くのが定番の大河ドラマでは、こういう展開にいくらか前例がある。わかりやすいところでは、昨年の『鎌倉殿の13人』がそうであった。大河ドラマファンならほかにも多数思い浮かぶことだろう。

 これは、お茶の間に親しみやすい柔和な人物が、ダークな思考を経て、伝説のイメージに近づくという手法である。

 大河ドラマファンは「お約束」が果たされたような感覚を覚えておられるかもしれない。今回はこれでようやく、みんなの知っている家康に近づいたということになろうか。いわゆる「覚醒」である。