お妃候補

 小和田雅子さんという女性が浩宮のお妃候補として週刊誌やスポーツ紙にスクープされたのは1987年が終わる頃のことだった。突如お妃候補として登場した魅力的な女性に週刊誌各誌の取材は過熱していった。ハーバード大学卒業で外務省勤務という経歴に日本中が沸いたといっても過言ではない。

外務省時代、ジェイムズ・ベイカー米国務長官来日の際、渡辺美智雄外相(当時)の通訳をされたときの小和田雅子さん(筆者撮影)
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 しかし、当の雅子さんはオックスフォード大学に留学、さらに追いかけるマスコミに対してお妃候補であることをきっぱりと全否定した。

 その後、雅子さんへの取材はなくなったが、マスコミは次々とお妃候補を見つけてきては取材に押しかけた。週刊誌はお妃内定のスクープ合戦を繰り広げていたのだ。

 そんな中、皇太子浩宮の雅子さんへの思いは変わっていなかった。

 浩宮の意向を受けて宮内庁は動き出す。1992年のことだ。

 1992年2月、宮内庁はまずマスコミ各社に皇太子妃報道自粛の報道協定を申し入れ、隠密に事を運べるようにした。そして雅子さんへの猛烈なアタックを再開した。

 その後の展開は後に報道された通りだ。再会されたお二人は皇太子の熱心なプロポーズによって愛を育まれ、その年の12月にご結婚を決められたという。

 年が明けて1993年の1月6日、この皇太子妃内定をいち早くスクープしたのは日本の報道協定に縛られていないアメリカのワシントンポスト紙だった。ちなみにワシントンポスト紙は外務省に伝手があってのスクープだったというが、それはともかくとして、このスクープの瞬間に報道協定は一気に崩れ、テレビは一斉に放送中の番組を特別番組に切り替えた。

1993年1月、「皇太子妃に小和田雅子さん」のスクープから数日後、自宅を出る小和田雅子さん(筆者撮影)

 そしてその日からご成婚の6月9日まで、世田谷区の小和田邸の前は連日報道陣で埋まり、雅子さんの動向はそのファッションと共に逐一ワイドショーなどを賑わしていった。

ご婚約が報道された後、カメラマンたちの前に立つ小和田三姉妹。妹は双子(筆者撮影)
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