きっと今の若者は聞いてドン引きするだろうが(というか、私としてはぜひドン引きしてほしいのだが)、彼らの両親が若かったバブルの頃、日本は男女の学歴差や賃金差が大きく、女性の専業主婦率が高く、しかもそれが社会の求める男女のあり方であり当たり前であると受け止められていた。その価値観体系のもとで、女性は自らの容姿やモテを資産化し、「若くてキレイな私があなたとご飯を食べてあげる」対価としてより良いブランド品や結婚相手や暮らしを手に入れ、「三高(学歴・年収・身長が高い)男性に“永久就職”して玉の輿に乗る」ことを目指すという、実にリスキーな賭けをしていたのである。
若さも美しさも、年々日々刻々と目減りするだけの時限的な資産でしかない。いわば「若くてキレイな自分を今のうちに即金で換金」、より高く売れれば勝ち組という発想である。
そんなバブル期の価値観をリスキーとか破廉恥と時代が感じていなかったのは、それほどに女性の側がサバイバルに際して持つリソースが限定的だったからだ。
東京カレンダーのギラギラした世界観は、「女は着飾り、男はおごるもの」という性別役割への強い固定観念と、女の自己換金発想と、男の痩せ我慢と、何よりも溢れてダダ漏れする下心が支えているのである。
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となれば、この「女の子は着飾るのにコストがかかっているからデート代は男性におごってほしいよね」という話題がツイッターで何度も思い出したように湧くという現象は、もはや懐メロというか、「あの人は今」というか、既視感たっぷりに同じ話題──日本人がみんな大好きな歌謡曲──を、言い出す役者を少しずつ変えながら何度も舞台に引っ張り上げているだけなのだ。