(歴史家:乃至政彦)
(前編の続き)
二階崩れの変、新宮党粛正の転換期
大寧寺の変は、時代の転換期に起きた事件である。
天文19年(1550)頃より、西国で変革の波が押し寄せていた。ひとつひとつはマクロで見ると小さな事件だが、直面した人々にとっては生死を分つ大事件であり、世界の全ても同然であっただろう。
同年2月10日、豊後の大友義鑑(よしあき)が長男・義鎮(よししげ/のちの宗麟)の廃嫡を考えていたところ、大友館の二階で謀反に遭って三男・塩市丸と共に殺害された。いわゆる「二階崩れの変」である。
大友家中にあった家臣同士の不和は乱後、義鎮らによって沈静化していく。長年蓄積された不満が謀反による政変という形で暴発したのは義隆たちにとっても衝撃的だっただろう。
同年5月には、前征夷大将軍・足利義晴が、近江穴太の地において40歳で病死した。このため、すでに将軍職を継承していた嫡男の足利義藤(のちの義輝)が一五歳で独り立ちすることになった。その後の義藤の人生は非常に多難で、京都で落ち着いて幕政のできる環境は最後まで得られなかった。
幕府の衰退ぶりはもはや覆い隠せなかった。義隆はこんな時代を哀れに思い、父のように率兵上洛を実現して、天下を平和に導こうと考えていたのだろう。
同年7月には、安芸の毛利元就・隆元父子が家中の井上元兼(もとかね)一族を誅殺した。毛利父子は事前に、大内義隆に宛てて「井上衆罪状書」(『萩藩閥閲録』巻93)を送り、許可をもらってから実行した。毛利家は義隆の命令という形なくして、国内の有力者を誅殺することはできなかった。
井上一族誅殺は、毛利の飛躍を支えたと高く評価されるが、実際は苦肉の策を使わねばならないほど追い詰められてのことであり、毛利家の余裕のなさを感じさせる。
なお、これより4年後の天文23年(1554)11月、出雲の尼子晴久は、家中の有力者である新宮党を粛正したが、その後尼子家が衰退したことから新宮党を滅ぼすべきではなかったとする評価がある。
毛利も尼子も似たようなことをしたわけだが、結果から訴求的に事件の評価が定められているわけである。
もし大寧寺の変のあと、晴久が上手く立ち回り、毛利一族を滅ぼしていたら、井上一族誅殺は愚行扱いされていただろう。あるいは新宮党の粛正がその後に行われていて、尼子勢力圏が中国地方全土に行き渡っていたら、こちらは絶賛の声を集めていたことだろう。