もうひとつは、スコットランドのセルティックに所属していたときの中村俊輔のゴールだ。中村といえばフリーキックで、たしかにマンチェスターユナイテッド戦で決めた2本のFKもすばらしいのだが、それよりも見事な一発がある。
それは2006年、宿敵のレンジャーズ戦で、渾身の左足で叩き込んだ強烈なミドルシュートである。アナウンサーの「ナーカームーラー!」という絶叫、大観衆の爆発的歓喜と相まって、何回見てもじつにほれぼれとする豪快なゴールである。
三笘のゴールが超絶技巧弾なら、中村の一撃は必殺ぶちぬき弾だった。
「日本人もサッカーをやるのか」と言われた時代
ところで三笘薫に対する賛辞がつづくなかで、わたしが同時に思い出したのは、三浦知良選手がいまから約30年前の1994年、27歳でジェノアCFCに1年間のレンタル移籍をしたときのことである。
日本人選手悲願のヨーロッパ進出だったし、アジア人初のセリエAプレイヤーだったから、マスコミは大騒ぎだった。
もちろんそれ以前の1977年に、ヨーロッパに行って成功した日本人選手1号に奥寺康彦がいる。しかし奥寺の場合、行ったのはドイツの1.FCケルンである。当時はまだブンデスリーガは日本人になじみが薄く、セリエAの方が世界的なタレントを擁していて圧倒的に格が上だったのである。
三浦は移籍早々の試合で大ケガをした。1年を通してかろうじて1点を挙げたが、まったく不本意な海外挑戦だった。帰国後、テレビで三浦が「日本人もサッカーをやるのかといわれてバカにされた」と苦笑していたことを覚えている。思い出したとは、このことである。
当時、三浦知良は日本では最高の選手の名声をほしいままにしていたが、イタリアでは当然無名で、それどころか、おまえたちもサッカーをやるのかといわれるくらいだから、相当つらい目にあったと想像される。
三浦はその後、ヴェルディ川崎を経て、1999年クロアチアのディナモ・ザグレブに移籍した。しかし、日本からの取材陣に同行していた通訳に、「こっちの言葉で“この野郎”はなんていうの?」と訊くなど、ここでもつらい日々を送っていたことが想像されたのである。
30年前にはヨーロッパで「日本人もサッカーをやるのか」といわれていた事実に照らしてみれば、三笘薫に対する「この男は天才だ」「新たな宝石」「どのチームもこの男に対応できない」「驚くべき才能の持ち主」「最高の輝き」「彼のプレイを見るのは実に楽しい」「魔法のような瞬間を作り出せる」「アンリみたい」「ネイマールみたい」「メッシみたい」などの賛辞は、まるで夢のように感じられるのである。