(山中 俊之:著述家/国際公共政策博士)
「エルサレムが融和の象徴なんてとんでもない」
エジプト人の友人からたしなめられた。私が、エルサレムがユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの一神教の聖地であることから、一神教の融和の可能性も秘めていると発言した際の反論だ。
確かに、この数カ月のエルサレム、イスラエルを巡る情勢には懸念が大きい。
イスラエル史上、最も排外主義的と見られる新しい連立のネタニヤフ政権が誕生した。ネタニヤフ氏のリクードが連立相手として選んだのは、パレスチナ人追放などを主張する極右政党や宗教政党だ。
アラブ人(パレスチナ人)の政党も連立与党として参画していた前政権とは大きく違う。
その新政権のベングビール国家治安相が、エルサレム旧市街にあるイスラム教徒にとっての聖地(後述する「神殿の丘」)に足を踏み入れるという「事件」をおかした。エルサレムでは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のお互いの聖地を尊重することがルールである。
ベングビール氏は、かつて人種差別の扇動で有罪判決を受けた経歴を持つ札付きの人物だ。今後も何をしでかすか分からない。
本稿では、日本に暮らす我々がエルサレム問題をいかに捉えるべきかという点について考えることにしたい。
そもそもエルサレムはなぜユダヤ教、キリスト教徒、イスラム教徒にとって聖地であるのか。