サッカーを「見るだけ」の悲しさ
11月26日の「映像誌、山の辺の道@長寿会」の回(https://www.youtube.com/watch?v=Y5PcyFbp-G8)で、氏は「サッカーの撮影はテレビカメラマンとしてのライフワークだった」と書いている。Jリーグが誕生したときから、「テレビカメラマンとしてサッカー中継に携わり、サッカー中継での撮影を常にリードして来た自負がある。サッカーを撮らせたら私は日本一のカメラマンだと自信を持っていた」。かれは「静」だけでなく、「動」の撮影も超一流だったのかと驚いた。
そのかれがいま視聴者としてW杯を見ている。「どうして、私は家に居てテレビを見ているのだろうか?どうして、スタジアムで撮影していないのか」「誰よりもサッカーの撮影が上手くなるために、誰も撮影出来ない、絶対に真似の出来ない撮影をするために、私は人生のかなりの時間を費やした。気が遠くなるような時間をサッカーの撮影に捧げてきた。それなのに、今はテレビの前にいる。悲しくて悲しくて仕方がない」
ここにひとり、日本サッカーの活躍を手放しで喜ぶどころか、「悲しくて悲しくて仕方がない」と受け止める人がいる。
わたしは20歳ごろ、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(「農民芸術概論綱要」)という文章を読み、感銘を受けた。しかし残念ながら、それは無理だな、「世界がぜんたい幸福」になることなどありえないから、「個人の幸福」はそれとは無関係に、別途打ち立てるしかない、と思った。
だが最近、このように考えるようになった。つまり「世界がぜんたい幸福」になることは永遠にないのだから、「個人の幸福」も永遠にないのだ、と。
いや、個人の幸福はそんじょそこらにたくさんあるではないか。「私たち結婚しました」「第1子を妊娠しました」というように。そう、そういう幸福を感じている人は、世界を一切見てはならない。ウクライナの現状やウイグルの扼殺やさまざまな悲惨を見てはいけない。見れば、あなたの脆弱な「幸福」が毀損される。