10月と11月の文章はさらに悲痛だ。「銀行残高が怖くて見られない。もうお金が限界」「お酒も飲まない、趣味もない、質素な生活、散髪は一千円で二ヶ月に一度。車もなく、バイクもなく、自転車もない、靴は一年に一足。それでも、生活は苦しい。ただ、まだ撮り続けたい、創り続けたい」

 絶望と希望、諦念と意欲のあいだで揺らぐ。ついに覚悟を決める。「奈良を撮り続ける。先のことは考えない」「やれるところまでやる。倒れるところまでやる。限界までやる。そう決めた」「終わりが来ることも覚悟している」

 もう一度、覚悟を決める。「もう祈らない、もう願わない、もう期待しない」「お世話になった皆さんに恩返しするために生きる、そう決めた」「それでも、最初の志に戻って、『今日の奈良を今日発信する』を続けていく」「せめて今年いっぱいは続けたい」

 さらに覚悟を固める。「私は私を否定することなく、自分に正直にお金を使い果たし、破産し、破滅することを覚悟している。私の願いは最後まで自分でいたい」ということ。「奇跡は起きない、そして、期待もしない。でも、夢だけは持っている。夢だけはプライドと一緒に絶対に捨てはしない。自分の歩んで来た道は間違いではなかったと、そう思って最後を迎えたい」。けれどこの覚悟も揺らぐのだろう。

コアなファンが支えることはできないのか

 わたしは奈良県民ではないが、保山耕一氏は奈良県民栄誉賞に値すると思う。かれの膨大な「奈良、時の雫」の映像は奈良県の宝である。永久保存されるべき有形文化財である。同時にそれは「保山耕一、魂の雫」でもある。かれには私心が一切ない。

 奈良県が1作品5万円(安いのか高いのか)で買い上げるなど、なんとか氏の窮状を救い支援する手立てはないものかと思うが、氏は「スポンサー探し」にも手を尽くし、結果、「暗礁に乗り上げ、万策尽きた」のである。こういっている。「私の力不足から、スポンサーを獲得したり、奈良県と連携することも叶いませんでした。すべては私の至らぬ人間力の弱さだと反省しています」

 ライブ配信の「リアルタイムでの視聴者は平均で180名〜200名」だという。わたしもこの数字を実際に見て、その少なさに驚いた。アーカイブの再生回数は3000回を超えている。この「3000回は視聴者数に近い数字だ」という。わたしは単純に、不安定な「投げ銭」などに頼らず、コアなファンの力で支えることができないかと考える。

 もしコアなファンが500人ほどもいれば、真のプロのカメラマンの手になる「奈良、時の雫」の毎月の視聴代を定期的に納めるのである。500人が月3000円納めれば150万円、200人としても60万円になるではないか。

 だがひとりだけでそんなことを考えても無力である。そんな考えに賛同するのはわたししかいないのである(けれど保山氏の口座に、ひそかにカンパを振り込むひとたちもいるのである)。