こうした弱肉強食の時代にあって、管仲は主である桓公に対し、国を挙げて周王室を支える姿勢を強く打ち出すよう提言します。また異民族(夷狄:いてき)に襲われる他国も率先して救援するよう提言します。
桓公は実際にこの通りに行動した結果、周王室から称賛され、他国の信頼も集めるようになり、諸侯に推戴される形で覇者となることができました。
この時に斉が採った外交方針について、後の戦国時代にまとめられた歴史書『春秋公羊伝』の中で「尊王攘夷」と表現されたことが、この言葉の初出とされています。
以上の経緯を踏まえて改めて「尊王攘夷」という言葉を眺めると、天皇を指す「皇」ではなく「王」の字や、「夷狄」を表す「夷」の字が使われているなど、中国発らしき要素が含まれています。恐らく、水戸学派が天皇を中心とした政治体制を表現する上で、中国の古典からこの言葉を引用したのだと考えられます。
ちなみに筆者はこの事実を最近知り、「『尊王攘夷』って実は中国語だったらしいよ」と知り合いの中国人女性に教えてあげたのですが、「そんな言葉、初めて聞いたんだけど」と冷たくスルーされてしまいました。