鶴ヶ城 写真/shima_kyohey/イメージマート

(町田 明広:歴史学者)

幕末維新人物伝202212)「京都守護職・松平容保の苦悩①」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71654
幕末維新人物伝202213)「京都守護職・松平容保の苦悩②」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71655

帰藩できない松平容保と江戸からの嫌疑

 第一次長州征伐後の中央政局において、会津藩をめぐる政情は複雑怪奇であり、厳しいものであった。具体的に、どのような難題が当時の松平容保を取り巻いていたのだろうか。『幕末会津藩往復文書』(会津若松市編、2000年)によって、まずは元治元年(1864)12月14日、在京の家老田中土佐などから国許へ出された書簡の内容を、確認することから始めたい。

 関白二条斉敬からお呼びがかかり、長々の在京については、恐らく国許での都合もあろうが、孝明天皇は容保を深く依頼している。この時節柄、当面はとても帰国などは叶わないので、そのように心がけるようにとの沙汰があったと伝える。

 今、江戸においては、もっぱら一会桑勢力(禁裏御守衛総督一橋慶喜・京都守護職松平容保・所司代松平定敬)が申し合わせて朝廷側に与したとの評判で、江戸に派遣した使者に老中たちは会ってくれない。しかも、会津藩に好意的な老中稲葉正邦が尽力してくれた新たな役料も凍結されてしまったと、江戸の幕府本体から嫌疑を受けている苦悩を述べる。

晩年の稲葉正邦

 そもそも、長々の在京はひとえに幕府への忠勤であり、十二分の尽力をしているが、その忠勤がかえって仇となり、嫌疑をかけられてはたまったものではない。たとえ朝廷の覚えが至極結構であても、江戸での評価がこんなことであれば、とても京都守護職など続けられないと、率直に不満を吐露する。

 しかも、長州征伐は寛大の処置になったと聞き及んでおり、今後どのような事態が起こるか計り知れない。解兵という機会をとらえて、早々に決断して帰藩すべきであると、断固として帰藩決定を求めることが主張されている。

 このように、江戸の幕閣からの嫌疑に耐えかね、朝廷からの絶大な依頼にもかかわらず、至急の京都守護職辞職を訴えた。幕府のために尽力しながら、その幕府から嫌疑を受けたのでは堪ったものではない。しかも、追加役料も見送られてしまい、経済的負担も限界に達していた。家臣団の苦悩は、ますます深まっていたのだ。