京都守護職が置かれた金戒光明寺の山門の額 写真/アフロ

(町田 明広:歴史学者)

幕末維新人物伝202212)「京都守護職・松平容保の苦悩①」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71654

松平容保の京都守護職就任

 文久2年(1862)閏8月1日、会津藩主松平容保は期せずして京都守護職に就任し、同年12月24日に上京した。容保は、禁裏御守衛総督の一橋慶喜、京都所司代の松平定敬(容保の実弟)とともに、京都の治安維持にあたることになったのだ。いわゆる、一会桑勢力である。容保は守護職として、新選組を傘下に置くなどして、その職責を十分に果たした。

松平定敬

 そのため、容保は孝明天皇から比類なき信任を得ており、特に容保に依頼する旨の宸簡を直々に下賜されるなど、厚遇が続いたのだ。尊王に篤い容保は、身命を賭して孝明天皇のために尽力し続けることになった。一方では、長州藩や尊王志士といった多くの敵も作らなければならなかった。

孝明天皇像

 文久3年(1863)は、まさに激動の1年となった。即時攘夷派の総本山とも言える長州藩は、中央政局を牛耳っており、三条実美や中山忠光などの過激廷臣とともに破約攘夷を唱えた。14代将軍徳川家茂は、3代将軍家光以来となる、約230年振りの将軍上洛を余儀なくされ、しかも、破約攘夷の実行を誓う羽目になったのだ。

徳川家茂像

 それを受け、5月に長州藩は下関で外国船を砲撃する過激な行動に出ており、即時攘夷を現実のものとしていた。その中心にいたのは、久坂玄瑞を筆頭とする松下村塾で学んだ吉田松陰の弟子たちであった。こうした事態にもかかわらず、幕府権威はとうに失墜しており、京都守護職の松平容保であっても、即時攘夷派に対して、容易に手出しができない状況にあったのだ。