令和4年名古屋場所の番付。横綱・大関、三役の顔触れは夏場所と同じ

(長山 聡:大相撲ジャーナル編集長)

相撲協会は番付を正しく理解しているのか

 令和4年名古屋場所の番付が6月27日に発表された。横綱・大関、そして三役は夏場所と顔触れが一緒で、新入幕も錦富士1人というやや話題性に乏しい新番付となった。それどころか御嶽海と正代の2大関がカド番のため、もし名古屋場所で負け越すようなことがあれば、そろって関脇に陥落する。残る上位陣は横綱照ノ富士と大関貴景勝の2人だけとなってしまい、横綱が地位と認定された明治42年(1909)2月以来、最も小人数となる可能性が出てきた。番付制度崩壊の危機だと捉える関係者も存在するほどだ。

 日本では順番を付けるとき、最もポピュラーな番付だが、その実態はあまり知られていない。後述するが、相撲協会でさえ、最近は番付制度を正しく理解しているとはとても思えないのが実情だ。

 番付は前の場所の成績順に力士が並ぶわけではない。平幕力士が優勝しても、角界のチャンピオン・横綱にいきなり昇進することは絶対にありえない。西洋のスポーツのようにきわめて機械的、合理的なランキングとは少々異なる。日本文化を具現する大相撲にはふさわしい、日本的な味付けがなされた順位表現と言ってもいいだろう。

 番付には力士、行司、年寄等の名前が記載されているが、何と言っても世間の耳目を集めるのは力士の昇降だ。

 江戸時代、勧進相撲初期の番付は大きな板に書かれた板番付で、興行場の前や人通りの多い盛り場に掲げられた。のちに興行の規模が拡大していくと広く告知する必要が生じたので、享保年間(1716~1736)あたりから、木版刷りの印刷物が出現する。当時は相撲興行の中心が京都・大阪の関西で、いずれも東西が別々の紙に刷られた2枚の番付だった。横長の紙2枚のうち、1枚に「東之方」、もう1枚に「西之方」の力士の名が書かれていた。

 その後、江戸相撲も勢力を持ち始め、宝暦7(1757)年に独自の番付が考案された。これを機に相撲協会の前身である相撲会所の組織も整い始め、次第に将軍のお膝元である江戸が相撲における最大のメジャー団体となった。現在の角界は、基本的に宝暦時代に確立された江戸相撲の流れを受け継いでいる。