三池炭鉱宮原(みやのはら)坑(じじき, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

(花園 祐:中国・上海在住ジャーナリスト)

 並み居る財閥がひしめく中、戦前に最大規模を誇った三井財閥。本連載ではその三井財閥の歴史を追っています。

 前回(「52歳の創業で大繁盛、三井創業者の非凡な商才とは」)は、三井家の創業者と名高い三井高利(みつい・たかとし、1622~1694年)の人生と、明治維新の動乱を三井家がどのように乗り切ったのかを紹介しました。

 今回は、明治に入り事業が企業組織化される中、その後の三井財閥の中核企業となっていく三井銀行と三井物産の設立過程、さらに三井グループが外部企業を傘下に収めて「財閥」と化していく過程を追っていきます。

小野組と共同で第一国立銀行設立

 明治維新を経て薩長土肥を中心とする新政府が設立されると、明治政府は金融政策において西欧に倣い、銀行制度の整備に着手しました。戊辰戦争以降、新政府の実質的なスポンサーとなっていた豪商の小野組、島田組、そして三井組も政府の方針に応じ、銀行の設立に動き出します。

 三井組では当初、独自資本での銀行設立を目指したものの、当時大蔵省で働いていた渋沢栄一(1840~1931年)の斡旋を受け、最終的には小野組と共同で設立することとなります。こうして1873年に設立されたのが「第一国立銀行」です。

 しかし発足してすぐ、第一国立銀行は大きな経営危機に見舞われます。

 設立翌年の1874年2月、政府は、公金を取り扱う各銀行に対し突如、公金取扱高の3分の1の現金を担保として拠出するよう要求します。同年10月にはこの割合が全額(100%)に引き上げられたばかりか、拠出期限も2カ月後の12月までと定められました。

 背景にあったのは1874年に行われた台湾出兵です。当時の明治政府は清(当時の中国)との開戦を視野に入れ、軍事費を急遽集める必要がありました。旧豪商の財布がそのターゲットとなったわけです。

 しかし突然の拠出要求に対し、銀行を経営する旧豪商たちは手許の現金に事欠く有様でした。公金を取り扱っていた小野組、島田組、三井組はともに、預かっていた公金を既に投機に用いており、拠出する現金などとうにない状態でした。

 実際、この政府の拠出命令をきっかけに、江戸時代以来の豪商であった小野組、島田組は破綻することとなります。しかし三井組は政府実力者とのパイプを生かして、この危機を凌いでみせました。