2019年7月に実施された北朝鮮の地方人民委員会代議員選挙(写真:AP/アフロ)

 北朝鮮の選挙制度は特殊である。表面的には民主的に見えるが、実際は、民主主義の基本的な権利である有権者による選択権が全くない。北朝鮮の選挙では、候補者に対して賛成または反対するという権利は形式上でしか存在せず、賛成投票率100%が、今までの北朝鮮における選挙の歴史であり結果である。

 ところが、2019年7月に実施された地方人民委員会代議員選挙で歴史が動いた。候補者への反対票が300票ほど出て、北朝鮮当局が大騒ぎになったのだ。なぜ、このような事件が起こったのか。選挙区の住民はなぜ反対票を投じたのだろうか。

(郭 文完:大韓フィルム映画製作社代表)

 平壌市東大院区域代議員の候補者として「東大院市場管理所長、ムン・ギョンオン(仮名)」が発表されたのは、地方選挙が始まる1カ月前の、2019年6月頃だった。

 東大院区域を代表する区域代議員(区議員)に選出されたムン氏は38歳の若い女性で、選挙戦が近づくと、彼女の選挙ポスターが東大院区域管内のあちこちに貼られた。すると、ムン氏のポスターを毀損する事件が相次いで発生し始めた。ムン氏の顔写真の部分が破られたり、写真の上にバツ印の落書きがされたりしたのである。

 北朝鮮保衛省と保安省は非常事態体制を取り、選挙ポスターを毀損した人間に対する大々的な捜査を行った。だが、選挙当日まで選挙ポスターを毀損した者を見つけることはできず、2019年7月、北朝鮮地方代議員選挙は予定通り行われた。

 そして、投票用紙を集計したところ、ムン氏に対する反対投票が多数発見された。その数は300枚あまりに達した。賛成投票以外はしてはならない北朝鮮において、反対投票用紙が投じられたのは建国初めてのことだ。

 この事実は、北朝鮮中央選挙管理委員会を通じて、ただちに金正恩(キム・ジョンウン)総書記に報告された。金正恩氏は、国家保衛省(秘密警察)と社会保安省(いわゆる警察)に早速な捜査を促したが、約20万人が投票した東大院区域で、反対投票を投じた人間を探し出すのは、容易なことではなかった。