連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識
「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」
『梁塵秘抄 (後白河院 編纂)』
(人は遊びをするために生まれてきたのか。それとも戯れるために生まれてきたのか。愛らしい子供たちの喜遊の声が耳に入れば、その欣快に思わず私の身体も動き出してしまいそうだ)
後白河天皇は第77代の天皇である。天皇の位を譲ったら、「上皇」の敬称となる。これは「太上(だじょう)天皇」の略称で、退位後に出家すると「法皇(ほうおう)」と尊称される。
後白河院は上皇、そして法皇として院政をはじめ30年余りの間、一時の中断もあったが二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の5代に及び院政を敷いた。
院は二条天皇、平清盛、木曽義仲らと対立するなどして何度も幽閉されるが、すぐに復権しては政敵を滅ぼしている。
法皇の生きた時代は新興勢力である平氏と源氏といった武家が台頭する動乱期であった。
院は権力維持のためには、平清盛から木曽義仲、源義経、源頼朝と後ろ盾となる武士を次々に替えながら、時には対決し、時に妥協しながら、その危機的な状況をかいくぐった。
その法皇の老獪な処世術に業を煮やした源頼朝は「日本第一の大天狗」と揶揄したという。
後白河院の政治方針は円転滑脱だが、政見がないとの見方もある。
とにもかくにも激動の時代を生き抜いた権謀術数の持ち主であったことは間違いなく、その手腕によって政局に一応の安定をもたらせたといえよう。
好色家としての法皇
今様では遊女を、側室には丹後局を迎えた後白河院だが、身分の上下を問わず様々な階層の女性と春情を交わすだけでは飽き足らず、男色においてもかなりの漁色家として知られている。
「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と、『平家物語』に、悪様に評されている平治の乱の首謀者・藤原信頼は「後白河に愛され、あさましき程に御寵愛ありけり」と、後白河院と藤原信頼が男色関係にあったと『愚管抄』にある。
また、院は、お稚児さんといった少年愛にも熱を上げ、東大寺別当が寵愛していた少年を引き取ったり、その美貌で知られた平清盛の嫡男・重盛と清盛の孫・資盛とも情交に励んだりもした。
平清盛が後白河院に少年愛の対象として自身の息子だけでなく孫をも捧げたのに対し、院との関係に出遅れた源義朝は後白河院の実姉・上西門院に息子の源頼朝を預け教養と作法を学ばせた。
それは淫奔で、その乱脈極まりのない後白河院と頼朝が、やがて男色関係なることを義朝が見越してのことだったと囁かれている。
好色家・後白河法皇は能画の第一人者で宮廷絵師・常磐源二光長に命じて『病草紙(やまいのそうし)』を描かせている。
そこに、当時の風俗や生活の中での「病」が精細に描写されている。
「二形(ふたなり)の男」では、
「ひそかにきぬをあげてみれば、男女の根ともにありけり。これ二形のものなり」
ある商人の容貌が男にも女にも見える。不思議に思った者たちは、寝入ったところで、そっと着物をまくし上げると、男女両方の性器があった。これを「ふたなり」と称す、と奇妙な両性の者が描かれている。
「陰虱(つびじらみ)」では、男が陰部を丸出しにして毛を剃り、妻が笑いながら見ている。陰虱とはいわゆるケジラミで、性行為により感染しやすく、多陰毛に寄生して産卵し、激しいかゆみを伴う。