この忍び猟風に歩いてみた時は、積雪は結構あったが、降雪は時折ちらちらと舞う程度の天気だった。なので、さほど用心していなかった。愛銃ベネリM3を肩にかけ、林道から雪の法面を上った。ズボボッ。少し林に入っただけなのに、一気に胸まで雪に沈んだ。

「な、なんやこれは…全然手足が自由にならへんぞ…!!」

〈ぬおー〉ともがきながらも前に進もうとするが思うようにならない。ジタバタしていると、ふと斜め後ろに気配を感じた。

 振り向くと、大きな雄のエゾ鹿だった。立派な左右対称の角は王冠のようで、胴体の高さの半分近くが雪で見えずとも、長年森で生きてきた威風堂々たる体躯は王者の雰囲気を醸し出していた。

銃口を向けるも引き金を引けず

 ズズッ、ズズッ…。ラッセル車のごとく、降り積もった雪をものともせずに進む雄のエゾ鹿。〈なんちゅうパワーや…!!〉。力強さと、いきなりラスボスのような鹿に出会ったことにも驚いた。彼が雪の中を進む音だけが山の中で静かに響き、それ以外の音は遮断されたかのようだった。音もなく雪が降っていた。雪がしんしんと降る、という表現を使うべき状況は今だろう、と頭で考えながら、撃つべき鹿の王冠(角)に降る雪を、しばらく、おそらく3秒ぐらい見つめていた。

 ハッ、見とれている場合ではない。撃たねば。ふと我に返り銃カバーを外してM3を構えようとした。胸まで雪に沈んでいるため、ポジショニングがうまくいかない。足の踏ん張りも利かない。銃口は鹿に向けたものの、撃てるフォームからはほど遠かった。彼は眼下でジタバタする人間に一瞥もくれず、ゆっくりと雪の中を悠々と進んでいった。

 私は「ハァ……」と長く息を吐き、後ろ姿を見送ることしかできなかった。神々しいとしか言い表せない姿が完全に雪の向こうに消え、撃つことのできなかった愚か者は胸まで浸かった雪の中に取り残されたのだった。