このような共感は、あらゆる聞き手に求められるものです。弱さを見せるとはどういうことかを自分自身で経験しないと、他の人が弱さを見せたときに感受性をもって尊重することがなかなかできません。
表面的な会話を続けたり常に冗談を言っているだけの人は、自分の労力や時間を使って他人を助けるとはどんなものか、理解できません。そういう人は、他人の助けをどう受けとるかもなかなか理解できないのです。
プライベートな話を人に打ち明けたのに、思いやりや理解のない反応をされた経験がある人なら、これがどれだけ、殻の中に魂ごと引っ込んでしまいたくなる経験かを知っています。
人が罪を告白したり、アイデアを提案したり、夢を語ったり、不安をさらけ出したり、重大な出来事の思い出を話したりしているとき、それが何であれその人は、自分の一部を差し出しているのです。
思いやりをもって受けとめないと、その人は今後あなたと話すとき「この人に本心は話せない」と考え、きれいごとしか話してくれなくなるでしょう。
話を聴くことで変わりゆく世界に踏み出せる
サン・ファン・デル・バレ聖母大聖堂での行列は、人間には「話を聴いてもらいたい」という根本的かつ切迫した欲求があることを物語っています。
もし何かすばらしいこと、もしくはひどいことが自分の身に起きたら、最初に抱く衝動は何ですか? おそらく、誰かに話したい、でしょう。
もし近くに誰もいなければ、私たちは悩みごとや喜びを、見知らぬ人、ペット、下手をすると鉢植えの植物にさえも話すでしょう。