「みんな、まるで野戦病院にでも行くかのような感じで、ここへ来ます」と神父は言います。

「どうしようもないくらい誰かに話を聞いてもらいたい。その様子は、まるで傷を負っているようです。瀕死の重傷といってもいいくらいです」

 大聖堂と広大な敷地は競技場に匹敵する大きさで、週末ごとに2万人以上が集まり、カトリックの聖地としてアメリカ屈指の訪問者数を誇ります。訪問者は世界中――北アメリカ、ラテン・アメリカ、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、カリブ海諸国――からやって来ます。

 たとえばワシントンD.C.にある「無原罪の御宿りの聖母教会」や、ニューヨーク州のセント・パトリック大聖堂も世界中から大勢訪れますが、ほとんどが観光客です。

 それとは異なり、サン・ファン・デル・バレ聖母大聖堂を目指す人たちは祈りに来ています。もっと端的に言うと、話を聞いてもらいに来ているのです。

「話したい人」は苦しんでいる

 私が大聖堂を訪れた日、あらゆる年齢、民族、国籍の人たちが胸の重荷を下ろそうと列をつくっていました。司祭たちはマルチリンガルで、4カ国語で告解を聞いていました。

 並んでいる人の中には、近所の柑橘園で働いているとおぼしき人もいれば、金のバックルがついた高価なイタリア製の靴と細身のスーツを身につけた、ヨーロッパのファッションリーダー風の人もいました。ほとんどの人は、自分の番を待つ間、携帯電話に釘づけになっていました。

「この世界では、聞くことが危機におちいっているのだと思うようになりました」とゴメス神父は言います。

「話したい人はたくさんいますが、聞きたい人はごくわずかです。そしてここで目にするのは、そのために苦しんでいる人々なのです。私は告解で、好きなように話してもらいます。彼らは最後に、私と話ができてうれしかった、と言います。でも私は話をしていません。おそらく、彼らの話を“聴ける”状態に私自身があること、それが彼らが求めてやまないことなのでしょう」

 カトリック神学校では、告解を聴く訓練はほとんどしていないとゴメス神父は言います。

謙虚に聴くことで深い思いやりを抱ける

 彼にとって告解を聴く準備としていちばんいいのは、自分も定期的に告解することです。

「謙虚な心で他の司祭の前に座り、自分の罪を告白しなければいけません。そうすることで、告解を聴く立場にいるとき、深い思いやりを抱けるのです」