奈良市役所で展示されている平城京の復元模型(名古屋太郎, CC0, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 歴史を遡ると、古代の日本は中国、そして朝鮮半島の影響を大きく受けてきました。漢字や仏教・儒学などの文化や、稲作や鉄製農具、養蚕、機織りなどの技術は、大陸や朝鮮半島からやってきた渡来人によって日本に伝えられました。それ以外にも、日本の国家形成において極めて大きな役割を果たすシステムを中国から導入しました。それが「律令」です。

 律令とは、ざっくり言えば「律」は刑罰のきまり、「令」は政治を行う時のきまりで、中国では秦のころから整備されはじめ、隋・唐の時代に精緻化され、明の時代にまで機能し続けました。日本では奈良時代に中国にならって律令に基づく国家機構の整備に着手しますが、同じころに新羅や渤海といった中国の周辺国も律令を取り入れています。中国の律令制はそれほど先進的で、統治機構を整備するために重要な役割を果たすものでした。

律令制整備しながら38年で滅亡した隋

 まずは日本が国作りの手本にした中国での律令の確立、さらには中央集権化をなしとげた隋の成り立ちを見ていきましょう。

 隋が中国を統一するのが589年です。それ以前、中国はいくつかの国に分かれていました。劉邦が建国した漢(後漢)が、黄巾の乱によって弱体化し、それをきっかけに国内が分裂する魏晋南北朝時代(184〜589)へと突入しました。

 このように多くの国が興亡する中から成立した隋は、それまでさまざまな国で用いられていた制度を受け継いでいました。南北朝時代の北魏(386〜534)からは均田制や租庸調制を、西魏(535〜565)からは府兵制を採用しましたが、さらにそれらを整備し、律令制を確立しました。さらに試験によって公正に公務員を募集する科挙を創始しました。これはそれまで貴族などが独占していた政府の役職を、身分に関係なく能力のある者にあたらせるための画期的なシステムでした。また州県制を敷いて中央集権体制の合理化を進めました。

 隋はおよそ300年ぶりに中国を統一した王朝でした。当時の日本は、この隋に遣隋使を派遣し、国交を結びます。