資本主義社会で乞食になった私たちを見る目

 食べ物が豊富にあった日本にいる時は、食事の問題がこれほど重要だとは思わなかった。着る物や住まいは根性と心構えでどうにかなっても、生命維持の問題でもある「食事」だけは無理だった。一年中、トウモロコシごはんとキムチ、干し菜のスープばかり。カステラやバターをたっぷり塗ったパンを食べたかったし、牛乳やジュースも飲みたかった。肉や米を買える場所すらないから、おやつを食べるなんてまさに夢物語だった。

 解決策として、トウモロコシを炒めて食べながらカステラを食べていると想像し、自分を慰めた。ひたすら我慢しなければならない。日本でバターたっぷりのパンとカステラを食べたことをすごく後悔した。最初からあの味を知らなかったら、食べたいなんて思わなかったものを。

 北送在日同胞は2学年下に入学した。朝鮮語が分からないからだ。放課後は残り、夏休みも学校に出ていって朝鮮語を学んだ。先生もクラスメートも「腐って病んだ資本主義社会」で乞食になったはずの私たちを疑問の目で見つめた。初めて見る日本製の消しゴムや学習帳、鉛筆を不思議そうに眺めながら、貸してほしいとねだってきた。いつの間にかなくなっていたこともある。

 何もかもが嫌だった。放課後に行われる生活総和(反省会)、授業中に騒ぐクラスメートの姿、授業中机の下の弁当を隠れて食べる姿、雨の日に傘も差さずぬかるみをはだしで歩く姿、寒い冬に火鉢の煙で涙を流す苦痛──。そのすべてに耐えなければならなかった。我慢できず、不平と不満を持ってもいけないのだ。

北朝鮮の中学時代。右から二人目が筆者

 不満を抑えきれず、北朝鮮と中国の国境を流れる鴨緑江(アプノクカン)を渡って脱北する14~15歳の子もいた。思い立ったらすぐ行動に移す年齢だ。川を渡っている途中に捕まる子、中国に渡ってから捕まる子もいた。60年代初頭は党の統制も比較的緩かったので、脱北して捕まっても叱られて終わった。