生まれて初めて北朝鮮の無煙炭火を使った母

 新潟港を発つ時は、楽園に行けると思ってうきうきしていた。しかし、清津港に到着してすべてを見た瞬間から、私の気持ちはどんよりと陰鬱になっていった。会館を出ると、ガタガタと揺れるバスに暗い気持ちで乗り、清津市にある「帰国者招待所」に向かった。約900人の「北送在日同胞」が朝鮮各地に配置されるまで、5~6日間、過ごす場所だった。

「帰国者招待所」のマンションの前には、大きな地図が掛かっていた。行く場所を選定するのだが、行きたい場所を自由に選べるわけではなく、党が配置を決めるのだ。私たちは北朝鮮で比較的南側のD郡という村に配置された。平壌までは汽車で移動し、西平壌駅からD郡まではマウルバス(地域の小型バス)に乗っていかなければならなかった。わざと砂利をまいたような舗装されていない道路を走る。耐えられないほどひどく体が揺れた。

 D郡の家はいずれも平屋の家屋で、村人たちは清津の人々以上にみすぼらしく見えた。ここでも多くの人々が紙で作った花を振って私たちを歓迎し、資本主義社会から来た新しいタイプの人間を好奇心と驚きのまなざしで見つめた。

 下関市の舗装道路しか知らなかった私は、歩くたびにほこりが舞うこのような道を「ぬかるみ」と呼ぶことも知らなかった。しわくちゃのズボンと黒く色あせた服を着た、支配人と名乗る人が満面の笑みを浮かべながら握手をし、家まで案内してくれた。山のふもとに新しく建てられたという1棟2戸の平屋。それぞれの住戸には8坪と6坪の2間しかない。トイレは家の前に建っていて共同で使う。掘っ立て小屋に仕切りを作り、地面に穴を掘って、そこに便をした。私は何もかもに幻滅した。

 政治も経済も日本とは天地の差がある社会の中で、新しく生まれ変わらなければならない。すべてが不慣れな私たちのために、世話をしてくれる女性が党からあてがわれた。主婦だった母はその女性に一から手ほどきを受けた。その苦労は言葉では言い尽くせない。

 母は生まれて初めて無煙炭火を使った。無煙炭火と土を3対1の割合で混ぜて火をつけ、消えないようにまきをくべ続けなければならない。もし消えてしまったら再びまきに火をくべて、無煙炭火を生き返らせる。

 母の爪と顔の小じわには石炭水が染み込んで真っ黒になった。暖房もごはんも無煙炭火を使わなければならない。慣れない仕事をする母にとって、これは北朝鮮に渡って初めての苦痛であり、その後も死ぬまで耐えなければならない苦痛の一つだった。

 苦痛はそれだけではなかった。