7歳の子供が感じた「地上の楽園」の現実

「帰国実現」とは、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)と朝鮮総連の韓悳洙(ハン・ドクス)が在日同胞をだまし、北朝鮮に移住させた事業だ。資本主義社会から社会主義社会への大移動であり、それすなわち社会主義の大勝利だと彼らはこの事業を高く評価していた。北朝鮮は「無償治療」と「無料教育」の国、「地上楽園」であると偽りの喧伝をしたのだ。

 日本赤十字社と朝鮮赤十字会との間の協定により、新潟港から北朝鮮の清津(チョンジン)港に行く航路が開設された。1959年12月14日に最初の帰国船が出発し、975人の在日同胞が北朝鮮に送られた。

 私の乗った「トポルスク号」の操縦士たちはソ連人だった。休憩時間になると船頭に出て、私たちにロシア民謡「カチューシャ」を教えてくれた。そんなふうにして3日間を船で過ごした。2段ベッドが備え付けられた部屋では8人寝ることができ、家族単位で過ごした。「トポルスク号」で思い出すのは黒っぽくてカビ臭いごはんと、ゴルフボール大の渋いリンゴだ。

 地上の楽園で暮らすという夢はすぐに打ち砕かれた。午前10時、清津港に到着した瞬間、「だまされた」と思った。ハンマーでガツンと殴られたように、頭がくらくらした。港で私たちを出迎えに来てくれた人々の浅黒い肌と、彼らが着ている灰色の制服、朝鮮労働党の命令によって激しく振られ続ける花束を見るに、彼らの苦しい暮らしぶりがうかがえた。後に聞いたところ、歓迎に来てくれた人たちは「乞食が来る」と聞いていたらしい。本当に「乞食」が来ると思っていたら、見るからに「紳士淑女」で驚いたそうだ。

 船から降りると、チェコスロバキア製のバスに乗せられた。朝鮮戦争ですべてが破壊された後だから、完全なバスはなかっただろう。自動ドアが作動するこのバスは、私たちのために用意した最高の待遇だったに違いない。

 バスはある会館に向かった。到着すると家族ごとにテーブルに座らされ、菓子を食べながら管弦楽団の音楽や歓迎の演説を聞いた。菓子といっても黒い物体と石ころのような飴が1皿。黒くて味のしない菓子を弟が「これ、うんちだ」と言って放り投げた姿を今も鮮明に思い出す。