説明しづらい武将「上杉謙信」
――では、そんな戦国武将が大好きな房野さんが『謙信越山』を読んで、どんな感想をもたれましたか?
房野 どこからしゃべろうかってくらい、ホントおもしろかったです! まず僕の個人的な感想として、上杉謙信ってとにかく説明しづらい武将なんですよね。歴史の本を出すようになってから、子どもたちに10分くらいで戦国武将について説明する仕事などが増えたんですが、有名でとり上げたいのに、解説するのが一番難しいのは謙信だって思ってたんです。
乃至 どういうところでそう感じられますか?
房野 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は問題ありません。武田信玄もいけて、伊達政宗も実像とイメージは大きく違いますが、まぁ解説できるんです。ただ、謙信となると実態が見えなさすぎるというか、語ろうとすると全部伝説になっちゃうみたいな。
乃至 たしかに、そうかもしれませんね。
房野 その点、乃至先生の『謙信越山』を読んで、上杉謙信の全貌が腹に落ちたという感じです。なぜあんなに何度も関東へ行ったのかとか。その構想を知るうちに、謙信のことを好きになっていった、というのが最初の感想です。
乃至 そう仰っていただけると光栄です。
房野 特に最初の段階で、当時の関東の情勢について人物切りで描かれているじゃないですか。里見義尭【※1】や小田氏治【※2】、上杉憲政【※3】とか。彼らのバックボーンについて丁寧に教えてくださったあとに、なぜ謙信が越山したのかって展開していく運びが、とてもすばらしかったです。
※1 里見義堯『上杉謙信の父・長尾為景が越後の統制を固めている頃、房総半島に関東屈指の雄将が独立を果たした。「関東無双の大将」を謳われる安房(千葉県南部)の大名・里見義堯である。(中略)安房里見家は、鎌倉公方奉公衆の一員である。奉公衆とは、公方に直属する側近たちで、里見家は代々にわたり、鎌倉公方・足利家の近習として仕えてきた。『謙信越山』第3節 里見義堯という男(前編)より』
※2 小田氏治『昨今では「常陸の不死鳥」の美称で讃えられるが、これと同時に「戦国最弱の武将」と酷評されることも多い。実際、氏治は重要な会戦で大敗することが多く、何度も拠点を奪われている。それでも立ち直りが早いことから、人柄がよく、領民から愛される呑気なバカ殿さまのように連想されることが多いらしい。ただ、氏治はそれほどわかりやすい無能ではない。『謙信越山』第5節 小田氏治という男(前編)より』
※3 上杉憲政『関東管領・上杉憲政――。ドラマやゲームなどの世界では、無能な人物として描かれることが多い。その原型となった近世軍記の憲政評は辛辣を極めている。(中略)たしかに憲政が敗戦の末に居城を追われ、他国へ亡命した事実は変わりない。しかし、その原因を暗愚だったからと片付けるのは、いかにも粗雑である。こんな後付けの評価を信じて学べることなど、あろうはずがない。『謙信越山』第7節 上杉憲政という男(前編)より』
乃至 『謙信越山』では、ほぼ最初の越山ともいえる永禄3~4年頃を中心に、謙信が政虎を名乗った前後くらいで終わっているんですが、当初はこの先も書こうと思っていたんです。ただ、当時の関東にはスポットライトをあてるべき武将が多すぎて、例えば佐竹氏【※4】について書く余裕すらないまま終わってしまったんです。
※4 佐竹氏 新羅三郎義光の子孫が常陸(茨城県)に土着して佐竹氏を称す。義昭・義重父子の時代に勢力を拡大。関ヶ原合戦では豊臣方にくみしたため、出羽秋田に転封された。