豊臣秀吉が小田原攻めの本営として築いた石垣山城から小田原の街並みと相模湾を見る。秀吉もこの眺望を楽しんでいた。撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

◉“大補給作戦”の真相(前編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64116

物資を行き渡らせるための条件とは 

(前回から)豊臣政権が、膨大な兵糧を買い付け、輸送用の船や馬を手配していたことは間違いない。しかし、その物資を前線の部隊にまんべんなく、滞りなく行き渡らせることができるかどうか、となると、話が別なのである。ここが、ロジスティクスの難しさだ。

 物資を行き渡らせるためには、何月何日の時点で、何人規模の部隊がどこにいるのか、といった「現場」の状況を適確に把握する必要がある。しかも、部隊の居場所など、「現場」の状況は刻々と変わるから、状況把握のためには、高速通信手段が不可欠だ。

北条五代目当主・氏直。秀吉の小田原攻めにより、北条氏の関東支配は終焉する。(Wikipediaより)

 一方、兵糧を運ぶためには船や馬だけでなく人手も必要だが、その人員もメシを食う。運ぶ兵糧が多くなればなるほど、多くの人手を要するから、より大量の食料を消費する。輸送途中などでの逸失分も計算に入れないと、現場では不足が生じる。

 したがって、前線に滞りなく物資を行き渡らせるためには、計算能力・情報処理能力・企画立案能力の高い専門組織が必要となる。それは、たとえば近代軍隊における参謀本部だ。というより、大がかりな作戦を成功させるための企画組織として、近代の軍隊は参謀本部のようなシステムを作り上げた、といった方がよい。

細川忠興陣跡 細川忠興が北条軍の砦を落として陣を置いた場所。ほとんどの将兵は、こうした陣所の周囲にあり合わせの材料で粗末な小屋を作り、かろうじて雨露をしのいでいた。撮影/西股 総生

 実は、世界の軍事史をひもといてみると、軍隊が後方からの補給に全面的にたよって作戦できるようになるのは、第2次世界大戦の後半になってからだとわかる。物資を前線にくまなく運ぶための、トラックやジープといったハードウェア。無線通信のような情報伝達技術。近代的な参謀本部という組織。この3つがそろってはじめて、後方からの補給物資を前線に滞りなく行き渡らせることが、できるようになったのである。

 それ以前には、世界中のどの軍隊も、後方からの補給だけで作戦することなどできなかった。世界史上の軍隊はみな、いろいろな方法で補給の問題に取り組んではみたものの、根本的な解決はできなかった。そして結局は、現地調達という、おなじみの方法に頼るしかなかった。現地調達とは早い話、略奪である。

 したがって、第2次大戦以前の軍隊は総じて、動いている時の方が食料にありつけた。イナゴのように食料を漁るからだ。しかし、ひとところに長陣を始めるなら、食糧不足が襲ってくるのが常であった。

前近代の軍隊が補給の問題を解決するもっとも手っ取り早い方法は現地調達だった。すなわち、略奪である。撮影/西股 総生

 1590年の小田原攻めの場合も、ナポレオンやヒトラーですら解決できなかった問題を、秀吉だけが易々とクリアできたとは、とても考えられない。輿の上にふんぞり返って東海道を下ってくる太閤殿下は、湯水のように食料を浪費できただろうが、前線の兵士たちは飢えに直面しており、略奪に走るしかなかったはずだ。

 秀吉は小田原包囲陣の中から石田三成や浅野長政、徳川軍の主力などを抜き出して、北条方の支城攻略に向かわせている。これは、通説では支城壊滅作戦として理解されてきたが、実際は口減らし作戦の意味合いが強かったのだろう。自分たちの食う分は、自分たちで調達してこい、というわけである。

小田原城惣構。北条軍は延長9kmにも及ぶ巨大な堀と土塁を築いて、豊臣軍の来襲に備えていた。豊臣軍は結局、この堀を突破できなかった。撮影/西股 総生

 さて、コロナ対策の切り札とされるワクチン接種。全国民分のワクチンを確保できたとしても、それを全国民に滞りなく行き渡らせることができるか、どうか。現代的な統治組織としての能力が、日本国政府に備わっているかどうか、言い換えるなら、我々が高額な税金を納めるに値する政府であるかどうか、真価が問われるときである。

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