復原遣唐使船(平城宮跡歴史公園) 写真/倉本一宏

(歴史学者・倉本一宏)

藤原北家の官人として順調に昇進

 どうもマイナーな人物に進んで行き過ぎたので、今回は藤原北家の常嗣(つねつぐ)について述べることとしよう。『続日本後紀』巻九の承和七年(八四〇)四月戊辰条(二十三日)は、次のような薨伝を載せている。

参議左大弁従三位藤原朝臣常嗣が薨去した。常嗣は、去る延暦二十年の遣唐持節大使中納言正三位葛野麻呂の第七子である。若くして大学に学び、『史記』と『漢書』を読み、『文選』を暗誦した。また文章を作るのを好み、隷書に優れていた。生まれつき才器があり、礼儀に適った所作は称讃に値した。弘仁十一年に初めて右京少進に任じられ、次いで式部大丞に遷った。十四年に従五位下に叙され、下野守に任じられたものの赴任せず、京に留まって春宮亮に任じられ、俄かに右少弁に遷った。天長元年に式部少輔に遷った。次いで勘解由次官を兼ねた。三年に従五位上に叙され、五年に正五位下に叙された。七年に公務のことで処罰され、刑部少輔に左遷された。八年に従四位下に叙され、勘解由長官に遷った。九年に下野守を兼ね、続いて右大弁を兼ね、従四位上に昇叙した。承和元年に改めて近江権守を兼ね、次いで左大弁に遷り、正四位下を授けられた。四年に大宰権帥を兼ね、五年夏六月に修聘持節使として大唐国に渡り、六年八月に大唐国から帰国した。近代の間に父子が相次いで権限を託された大使の選に預かったのは、ただこの一門のみである。九月に従三位を授けられた。薨去した時、年は四十五歳。

 常嗣の曾祖父にあたる鳥養(とりかい)は、北家の祖である房前(ふささき)の長子であったが、天平元年(七二九)の天平改元の日に従五位下に叙爵されたものの、早い時期に死去したものと思われる。その子の小黒麻呂(おぐろまろ)は大納言に上り、その子の葛野麻呂(かどのまろ)は中納言に上っている。

 ただし、この頃には、藤原北家の嫡流は、真楯(またて)・内麻呂(うちまろ)・冬嗣(ふゆつぐ)と続く系統に、ほぼ固まってしまっていた。鳥養が早世したことと、小黒麻呂・葛野麻呂が大臣に上ることがなかったことが影響したのであろう。永手(ながて)・魚名(うおな)・内麻呂と続いた権臣に打ち勝つには、小黒麻呂や葛野麻呂は、いかにも凡庸だったのである。

 葛野麻呂が平城(へいぜい)天皇に接近しすぎたことも原因であった。その点では、長男の真夏(まなつ)を平城上皇、次男の冬嗣を嵯峨(さが)天皇に配置して家の存続をはかった内麻呂などには、及ぶべくもなかったのである。

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 とはいえ常嗣も、藤原北家の官人として、順調に昇進していった。名家の子としては珍しく大学に学び(平城天皇の影響か)、学問に励んで才能を発揮した後(『経国集』に漢詩が採られている)、嵯峨天皇の弘仁十一年(八二〇)に二十五歳で右京少進、次いで式部大丞に任じられた。弘仁十四年(八二三)に二十八歳で従五位下に叙された。この時期としては早い方である。ただ、下野守に任じられたものの赴任せず、京に留まったというのは、いかなる思いによるものであろうか。それでも咎められることはなく、春宮亮、また右少弁に任じられている。

 淳和(じゅんな)天皇の天長元年(八二四)に二十九歳で式部少輔に遷り、次いで勘解由次官を兼ねた。天長三年(八二六)に三十一歳で従五位上、天長五年(八二八)に三十三歳で正五位下に叙されたというのも、順調な昇進である。

 ところが、天長七年(八三〇)、三十五歳の時に公務のことで処罰され、刑部少輔に左遷された。処罰されてもこの程度で済んでいるというのも、いかにも北家の御曹司という感がある。すぐに赦されたらしく、薨伝には記載がないが、蔵人頭に補された(『公卿補任』)。翌天長八年(八三一)に三十六歳で従四位下に叙され、勘解由長官に遷るとともに、参議に任じられ、公卿の地位に上った(『公卿補任』)。天長九年(八三二)に三十七歳で下野守、続いて右大弁を兼ね、従四位上に昇叙した。参議は兼帯したままである。この間、『令義解』の編纂にも携っている。なお、『令義解』は仁明(にんみょう)天皇の代となった天長十年(八三三)に撰集された。

 承和元年(八三四)に三十九歳で左大弁に遷り、正四位下を授けられたが、この年、大きな転機が訪れた。結果的には「最後の遣唐使」となった承和の遣唐使の大使に拝されたのである。薨伝にもあるように、父子二代続けて大使に拝されたのは、これが最初(で当然、最後)のことであった。承和四年(八三七)には四十二歳で大宰権帥も兼ねている。