人間は本来、楽観的な動物なのだろう。いや「そうであるに違いない」と思わざるを得ないほど、しばしば同じ失敗を繰り返す。経済のバブル現象はまさにそれ。17世紀オランダのチューリップ相場大暴落以来、昨今の「サブプライムローン」危機まで何度同じ悲劇(というより喜劇?)が繰り返されてきたことか。
時流に乗り、1代で巨額の富を築き上げる起業家は世界にいる。アンドリュー・カーネギー、ジョン・D・ロックフェラー、J・P・モルガン、コーネリアス・ヴァンダービルト――。
思い浮かぶのは19世紀の米国人ばかりだが、彼らは功なり名を遂げ、優雅で幸福な余生を送ったらしい。ところが、翻って日本人を探してみても、なかなか思い浮かばない。豊田喜一郎、鮎川義介、松下幸之助――。「優雅で幸福な余生」が彼らには合致しないような気がする。
日本のカリスマに共通する、「優雅で幸福な余生」のなさ
信仰上か、価値観の違いなのか、日本人には「余生」という観念が乏しい。松下幸之助には若干そんな意思をうかがわせる言動があるが、娘婿(松下正治・現パナソニック取締役相談役名誉会長)の無能に苛立ち、社長を退いた3年後に「営業本部長代理」の肩書きで現場復帰する(有名な「熱海会談(1964年)」後のこと)など、隠遁生活には程遠い晩年だった。
ダイエー創業者の中内も、元コクド会長の堤義明も、早くに「余生」を考えていれば、失敗から転落、追放へという悲劇に見舞われることはなかったに違いない。
事業欲、権力欲が旺盛な彼らは壮年期までの成功に飽き足らず、老境に達してからもイエスマンたちに囲まれて惰性でプロジェクトをこなし、最後は積み上がった負債と損失、さらにスキャンダルの陥穽にはまった。晩年に破滅が待ち構えていなかったにせよ、はなから彼らには「余生」がなかったのだろう。
少々前置きが長くなったが、最近こうした中内や堤と同じ臭いがする経営者がいる。森ビルの社長、森稔である。1934年(昭和9年)8月24日生まれの74歳。東大教育学部を卒業した59年に、父親の泰吉郎(93年に死去)が設立した森ビルに入社した。
泰吉郎の起業はその4年前で、前身の森不動産が東京・西新橋で賃貸ビル開発に乗り出したのが森一族の事業の始まり。ただ、稔は東大在学中から「事業部長」の肩書きを持ち、会社を取り仕切っていた。泰吉郎は横浜市大商学部長まで務めた学者であり、事実上の森ビル創業者は稔だった。
新橋や虎ノ門を中心に「第1森ビル」「第2森ビル」といわゆるナンバービルを展開。86年開業の「アークヒルズ」(赤坂)、2003年の「六本木ヒルズ」で会社の知名度は飛躍的に上昇、稔自身いまや日本の「ビル王」の名を不動のものにしている。2008年3月期時点で森ビルは賃貸ビル数107棟、連結売上高1697億円に達している。
外国人が敬遠する中で上海に金融センター建設を決断
今年1月、米誌「フォーチュン」は2007年にアジアで最も活躍した経済人に贈る「アジア・ビジネスマン・オブ・ザ・イヤー」に森稔を選んだ。「15年前、多くの外国人投資家が投資を敬遠していた中国・上海で、金融センターの建設を決断した」というのが受賞理由である。
そのプロジェクト「上海環球金融中心」(地上101階建て)は8月末に開業。8月28日、上海浦東新区の一角にある現地でのこと。日米欧から約500人のメディア関係者を集めて開いた内覧会を兼ねた記者会見で森は「森ビルの歴史は不可能への挑戦の連続だった」と胸を張った。