1つは、PCR検査数と医療機関のキャパシティのバランスです。医療機関のキャパシティを見定めながら、症状の重い方を中心にPCR検査を実施しました。その手法は一部から批判も浴びていますが、これは極めてバランスのとれた方法だったのではないかと感じています。

 当たり前ですが、検査数をどんどん増やしていくと、陽性判定者も増えます。陽性と判定された患者は医療機関は極力受け入れないといけない。「無症状だけど陽性です」という方であっても、少なくとも極力感染していない人から離れて療養してもらわないといけませんから、病院か、自治体が借り上げたホテルなどで受け入れてもらうことになります。そういう体制がすぐにでも十分整えられるというのなら、検査をどんどん増やすべきだったでしょう。

 しかし、そうでない時点では、より重い症状の人から検査を受けてもらい、陽性であれば限られた医療施設や隔離施設に入ってもらう、そして、単に心配なだけの無症状の人は検査を受けるという意味では後回し、という方法(トリアージ)を取るしかありません。

 日本ではそこのバランス重視の考え方がブレなかったので、ギリギリで医療崩壊を免れることができたのではないでしょうか。どんどん検査数だけ増やして、症状が軽い人も重い人も片っ端から入院等をしてもらう、というスタンスだったら、あちこちの病院でキャパシティを超える事態が起き、各地で医療崩壊が起こったと思います。

 今回、そうした最悪の事態はなんとか逃れることができたように思います。それはやはり検査数と医療機関のキャパシティのバランスのとり方が良かったからでしょう。

「要請」中心の緊急事態宣言で民主主義を守った

 2つ目の特筆すべきバランスは、強権的な手法と民主主義的な手法のバランスです。

 日本の緊急事態宣言は、いわば「張子の虎」です。大仰な名前ですが、実は「要請」が中心で、あまり強制力を伴わないものです。そうした「張子の虎」の緊急事態宣言を使い、国民に「自粛」を要請したのです。それは、あくまで、「要請」に対して「自粛」をするという、国民の「意思」を尊重した形式であり、裏から言えば「民主主義を守った」ということでもありました。