(写真はイメージです)

『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』など数々の名作を遺した宮沢賢治は、妹トシの死後、汽車でサガレンへ向かった。日本最北端のサハリン(樺太)、旧名サガレン。1923(大正12)年の夏、賢治ははるばるやってきた樺太に、故郷岩手を、そして妹トシを見る。『廃線紀行』、『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』など、常に話題作を送り出し続けてきたノンフィクション作家・梯久美子氏がサハリン/樺太で賢治の行程をたどる。第2回/全2回。(JBpress)

(※)本稿は『サガレン 境界を旅する』(梯久美子著、KADOKAWA)より一部抜粋・再編集したものです。

(前編)「サガレン」が賢治にもたらした新たな世界​
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60255

車窓からの風景

 早朝の栄浜(現在のスタロドゥプスコエ)を散策し「オホーツク挽歌」を書いた日(1923年8月4日)、栄浜駅を午後4時35分に発車する列車で、賢治は豊原(同ユジノサハリンスク)へ向かった。

 その車中で書かれたと思われる詩「樺太鉄道」は、こんなふうに始まる。

やなぎらんやあかつめくさの群落
松脂岩薄片のけむりがただよひ
鈴谷山脈は光霧か雲かわからない
(灼かれた馴鹿の黒い頭骨は
線路のよこの赤砂利に
ごく敬虔に置かれてゐる)
そっと見てごらんなさい
やなぎが青くしげつてふるへてゐます
きっとポラリスやなぎですよ
(「樺太鉄道」より)

 車窓からの風景である。近景に、やなぎらんやあかつめくさの群落があり、遠景には鈴谷山脈が見える。鈴谷山脈は、栄浜から大泊にかけての平地の東側に位置し、賢治が乗る泊栄線の線路と並行するかたちで山々がつらなっている。このときの賢治には、左側の車窓に山並が見えていたはずだ。

 近景と遠景の中間に、「松脂岩薄片のけむり」が漂っている。松脂岩はガラス質火山岩で、鉱物の結晶を含んでいるものは、薄片にすると煙のような模様が見える。周囲に何かを焼く煙が漂っていたのか、あるいは蒸気機関車の煤煙(ばいえん)だろうか。