鹿屋航空基地史料館(Wikimedia Commonsより)

 長い間、終身議員のごとく活躍していた政治家、二階堂進と山中貞則。2人を生み出した大隅半島には、いったいどんな歴史があったのか。「戦後の民主化」によっても変わらないイデオロギーとは何なのか。その謎を解明するべく、現地を調査したルポルタージュ。全2回、後編。(JBpress)

(※)本稿は『地形の思想史』(原武史著、KADOKAWA)より一部抜粋・再編集したものです。

(前編)全国唯一、女性市議が不在だった九州の「半島」の謎

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58671

大物政治家を生んだ「半島」

 大隅半島と政治のつながりを語るうえで、欠かすことのできない人物が2人いる。高山村(現・肝付町)出身の二階堂進(1909~2000)と、末吉村(現・曽於市)出身の山中貞則(1921~2004)だ。2人が死去した翌日の鹿児島県紙『南日本新聞』(2000年2月4日および2004年2月21日)は、どちらも一面トップでそれぞれの死を大きく報じている。

 二階堂は46年の衆議院総選挙で、山中は53年の衆議院総選挙で初当選した。55年の保守合同で自民党が誕生してからはともに同党に所属し、大隅半島と種子島、屋久島を選挙区とする鹿児島三区(94年から鹿児島五区。現在は鹿児島四区)から出馬し続けた。

 二階堂は科学技術庁長官・北海道開発庁長官、内閣官房長官、党幹事長、副総裁などを歴任し、自民党の田中派から分裂した「二階堂グループ」を率いたが、96年に政界を引退した。

 山中もまた総理府総務長官、環境庁長官、防衛庁長官、通産大臣、自民党税調会長などを歴任し、90年の総選挙で一度落選したものの93年に返り咲き、死去するまで衆院議員の座にあった。

 つまり鹿児島三区では、50年代から90年代まで、基本的にずっと二階堂進と山中貞則という2人の男性政治家が、あたかも指定席のごとく、衆院の議席を分け合ってきたことになる。大隅半島の政治風土を考える上で、この事実はきわめて重要ではないか。