『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』など数々の名作を遺した宮沢賢治は、妹トシの死後、汽車でサガレンへ向かった。日本最北端のサハリン(樺太)、旧名サガレン。1923(大正12)年の夏、妹の死に打ちのめされた賢治はサガレンで何を見て、何を思ったのか。『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』、『原民喜 死と愛と孤独の肖像』、『廃線紀行』、『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』など、常に話題作を送り出し続けてきたノンフィクション作家・梯久美子氏がサハリン/樺太で賢治の行程をたどる。第1回/全2回。(JBpress)
(※)本稿は『サガレン 境界を旅する』(梯久美子著、KADOKAWA)より一部抜粋・再編集したものです。
妹トシを求めて
宮沢賢治が樺太を旅したのは、1923(大正12)年の夏である。27歳になる直前だったこのとき、大泊(現在のコルサコフ)から豊原(同ユジノサハリンスク)を経て栄浜(同スタロドゥプスコエ)まで乗った鉄道が、『銀河鉄道の夜』のモチーフになっているのではないかと言われている。
当時、栄浜は樺太でもっとも北にある駅で、それはすなわち日本最北端の駅であることを意味した。
そのころ賢治は、岩手県立花巻農学校で教師をしていた。樺太行きの直接の目的は、大泊の王子製紙に勤めていた旧友を訪ねて、教え子の就職を頼むことだった。実際に2人の教え子が、のちに王子製紙に勤めている。
だが本当は前年の1月に亡くなった妹トシの魂の行方を追い求める旅だった、というのが定説のようになっていて、樺太行きについて触れている本のほとんどに“魂”という言葉が出てくる(『地球の歩き方』にまで!)。
死者の魂を追いかけて北へ向かう汽車に乗る、というのは、正直言って、私にはいまひとつピンとこなかった。妹が亡くなったのは生まれ育った花巻で、墓もそこにある。樺太には縁もゆかりもないし、死んだ人の魂が北方へ行くという考え方も、一般的なものではないように思う。
私にわかるのは、鉄道好きだった賢治が、日本最北端の駅だった栄浜駅まで、汽車に乗って行ってみたいと思ったであろうことである。同じ鉄道ファンとして、そこのところはわかりすぎるほどよくわかる。
賢治が樺太に向けて花巻駅を出発したのは1923年7月31日。注目すべきは、そのおよそ3カ月前の5月1日、北海道の稚内と樺太の大泊の間に、鉄道省による連絡船(稚泊航路)が開通していることだ。
それまで樺太に渡るには、小樽から民間の航路を利用するしかなく、長時間の船旅を余儀なくされた。それに比べて稚内―大泊は、もっとも狭いところは42キロしかない宗谷(そうや)海峡を渡る最短の航路で、しかも運行は鉄道省である。
これによって、内地と樺太が鉄道で一本につながり、切符一枚で樺太まで行くことができるようになった。運賃もぐんと安くなったのである。