(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
天守はマイノリティだった?
皆さんに、大切なお知らせがあります。天守は、日本の城の華です。でも、日本全国に数万もあるといわれている城のほとんどには、天守は建っていませんでした! 天守は、本当はまったくのマイノリティだったのです。というのも…。
もともと戦国時代の城は実用本位で、天守なんかありませんでした。大河ドラマ『麒麟がくる』に出てくる、稲葉山城みたいな感じです。ところが、戦国時代も半ばを過ぎたころ、城の中心に大きくて頑丈な建物を建てたらスゴイぞ、と思いたった武将が、誰かいたのです。
このスタイルを積極的に取り入れたのが、織田信長でした。1576年(天正4)に、信長が築いた安土城(滋賀県)には、5重の壮麗な天守が建てられました。同じ頃から、信長の配下の武将たちも、城に天守を建てるようになります。そして、信長や豊臣秀吉の統一事業にともなって、全国各地に天守のある城が築かれるようになったのです。
なので、信長・秀吉の勢力圏外にあった武将たちの城には、相変わらず天守はありませんでした。武田も上杉も今川も北条も伊達も、毛利も長宗我部も大友も島津もです。
天守は権力を示すものではない?
ではなぜ、城に天守を建てるようになったのでしょう。天守とは、そもそも何なのでしょう? 天守とは城主の権威・権力を示すための建物だ、という人がいます。でも、この考え方は、残念ながら間違っています。
というのも、武家社会というのは家格による序列が厳格に定められている社会だからです。部屋の中で座る場所だって、畳一枚単位で決まっています。しかも、武士という人種は、相手からナメられることをとても嫌います。
そんな社会で、権威・権力を示すための建物を作るとしたら、城主の石高や家格によって、サイズやスタイルが決まってくるはずですよね。ところが、天守のサイズやスタイルと、石高とも家格との間には、まるで相関関係が見つかりません。
江戸時代の大名ビッグ3、つまり加賀の前田家、薩摩の島津家、仙台の伊達家だって、天守を建てていません。それどころか幕府自身も、1657年に江戸城の天守が大火で焼けてしまうと、「もう天守なんか建てている時代じゃないや」と、再建をやめてしまいます。
もし、天守が権威・権力を示すための建物だとしたら、何が何でも再建しなければ、将軍の威信は地におちてしまいます。前田家・島津家・伊達家だって、格下の大名たちに示しがつきませんよね。