人は時代が変わっても目に見えないものに畏敬の念を抱いている

 私たちは、家電やパソコンなどを購入する際、かならず保証書が添付されるものを買い求める。

 だが、ご利益があるか否かについて保証が全くないにもかかわらず、初詣に参ったり、手相などの占いを頼りにしたり、運気が向くように験(げん)を担いだり、お守りを身に着けたりする。

 科学の進歩により、かつては神秘的といわれた現象も実はまやかしだったことが、昨今数多く実証されている。

 たとえ祈祷の効力を宗是としてきた真言宗の僧侶であったとしても「神秘の力などあり得るのか」と祈りの力を疑い、その威力を信じない者も実際に数多く存在している。

 しかし、祈りのプロである真言行者が、悩みや苦しみを抱えた祈願者に対して、加持祈祷*1を修する際に、「効果があるのだろうか」とか「ひょっとしたら8割くらいなら頑張って効果があるかもしれない」と思って祈っているとしたら、それは問題である。

*1=一般に、病気・災難などをはらうために行う祈祷、または、その儀式。印を結び、真言を唱え、いくつかの象徴的器具を用いて行う=大辞泉。

 なぜなら、祈りの効験(効きめ)を信じ切れていないことになるからだ。

 家電メーカーの社員が、自社で作った洗濯機を「ひょっとしたら8割くらいなら頑張って綺麗に洗い落とせるかもしれない」などと思うがずはない。

 自社製品に誇りと愛着がなくて、どうしてユーザーに自信を持って製品を届けることができようか。