86年7月、史上2度目の衆参ダブル選で、中曽根率いる自民党は300議席を超える勝利を収めた。党内では幹事長としてダブル選の指揮を執った金丸信の影響力が強まり、金丸の要求を飲むかのように竹下登が幹事長に就任。竹下の天下取りは最終コーナーに入り、87年10月の「中曽根裁定」で竹下が後継首相に決まった。翌11月、小沢の悲願だった竹下内閣が発足する。
中曽根裁定が下ったのは、10月20日午前0時過ぎ。塩田潮の『実録 竹下登』(講談社)によると、竹下は20日午前2時ごろ、世田谷区代沢の私邸に到着し、家族らが首相就任を祝った。刺身や寿司が盛られた大漁船を囲む家族・秘書の中に小沢もいた。前述のように小沢の妻と竹下実弟の亘の妻は姉妹だった。姻戚関係は政界ではやはり重要だ。血のつながりは全くないとはいえ、小沢は竹下から親族同様の扱いを受けていた。
竹下内閣で小沢は官房副長官として官邸入りした。閣僚経験者が格下の官房副長官に就くことは珍しい。そもそも、官房副長官は地味である。しかし、小沢はそれまでの見方を覆すほど、縦横無尽に動き回る。国会対策はもちろん、日米の建設市場開放協議、日米電気通信協議など通商分野にも取り組む。原則論を貫き、相手の威嚇にもひるまない「タフネゴシエーター」の存在は、ワシントンでも知られるようになっていく。
竹下は小沢の官房副長官に関して「組んでよし、押してよし。投げもあれば、引き技もある。小沢君は本物だわな」(大下英治著『一を以って貫く』講談社文庫)と答えた。この時の小沢の働きぶりについて、当時の官邸内部を知っている内閣府幹部は「小沢が官邸主導型のスタイルを構築したともいえる。官房長官の小渕よりも、小沢についていく番記者の方が多かった。官邸主導は、後に橋本政権、小泉政権で確立していくが小沢はそのさきがけだった」と指摘する。
88年、3%の消費税導入、大型減税などを盛り込んだ税制改革6法案を成立させるため、小沢は与野党間を縦横無尽に駆け回った。竹下政権は「自公民」路線で消費税を実現しようとしていた。そこで、小沢は公明党、民社党と太いパイプを築いていく。この人脈は、後にPKO法案や細川連立政権樹立の際に大いに役立つことになる。
剛腕伝説
長期政権になると思われていた竹下内閣をリクルート事件が直撃する。1989年6月3日、竹下内閣は総辞職し、宇野内閣が発足する。だが、宇野の女性スキャンダルが原因で、自民党は89年7月の参院選で歴史的敗北を喫してしまう。党の大きな危機だった。後継はリクルート事件に無縁だった海部俊樹に回ってきた。当の海部も予想すらしていなかった総裁就任だった。金丸の強い推挙により、海部は小沢を幹事長に起用する。89年8月9日、47歳2カ月で幹事長に就任した。田中角栄に次いで史上2番目の若さだった。小沢の「剛腕伝説」は、この幹事長時代のエピソードが多い。
伝説中の伝説は、財界から選挙資金300億円を調達したことだ。小沢は窮地の自民党が次期衆院選に臨むには、「公認候補300人に1人1億円、計300億円が必要」だと主張した。経団連のトップ・斎藤英四郎は当然ながら小沢の申し出に困惑したが、小沢が業界ごとの献金リストを具体的に示し、経団連を通さずに直接献金を要請することまで通告した。最終的に経団連は小沢の気迫に押され、要求を受け入れざるを得なかった。
小沢は政治献金を派閥ではなく、自民党に一本化し、それを各派の所属議員数に応じて配分するという方式を導入した。この方式は党内からはそれなりの評価を得たようで、政治改革に邁進していく小沢の理念・思想はすでに形になっていたともいえる。
89年10月の参院茨城選挙区の補欠選挙も、剛腕伝説のひとつである。自民党の公認候補を一本化するため、女性候補を2時間「缶詰」にして出馬しないように説得したエピソードが残っている。補選は小沢が全面介入し、総指揮したことで勝利する。消費税・リクルート事件で退潮傾向にあった自民党に久しぶりに明るい話題をもたらした。
なお、この時、小沢の右腕として現場で陣頭指揮をしたのが総務局長の中村喜四郎(後に建設相)である。茨城が地元の中村の活躍なくして補選の勝利はなかった。中村は当時、船田元(後に経済企画庁長官)と並び、小沢に近い若手とみられていたが、92年の経世会分裂時に小沢と激しく対立し、袂を分かつ。「小沢に近い人物ほど離れていく」という現象の、初期の代表例が中村だ。最近、長年の沈黙を破り中村はノンフィクションライター・常井健一の取材に応じ、自らの人生を語りつくしている。昨年12月に刊行され、異例の売れ行きとなっている常井の『無敗の男 中村喜四郎 全告白』(文藝春秋)に興味深いくだりがある。
「90年2月の総選挙では小沢幹事長-中村総務局長で、空前の大勝利を収める。そのあたりから小沢氏は私と距離を置こうという態度になっていく。中村に選挙対応をやらせてみて、うまく行きすぎたから、あまり表に出したくないという思いになった可能性はありますね」「私はその後、いろいろな政治的逆境に遭いましたけど、小沢氏に反旗を翻したことと、その後の『逆境』が全く関係ないとは思えません。いろいろな関係があったと思います。でも、政治家だからそれはそれで仕方がない」(中村の発言)
90年代に入ると、政界は小沢中心で動いていく。親小沢か反小沢か。小沢につくか、つかないか——。自身に向けられる批判、嫉妬、憎悪をものともせず、小沢は空前絶後の破壊的な革命を成し遂げることになる。
(続く)