戦前の共産党で活躍した福本和夫を父に持つ政界フィクサー・福本邦雄の回顧録『表舞台 裏舞台』(講談社)には、福本が梶山から直接聞いた小沢のエピソードが載っている。福本は竹下の強力な支援者である一方、イトマン事件で知られる許永中らと接点を持ち、KBS京都の社長に就任するなど表社会でも裏社会でも名をはせた人物である。
〈梶山曰く、「創政会を旗揚げすると時に、最後の瞬間になって、金丸が非常に動揺した」と。田中からの呼び出しで、「すぐに田中邸に来てくれ。何とか妥協収拾を図ろうじゃないか」という電話があった。金丸が行きかけた。そうしたら、小沢がそれを止めた。小沢と羽田が金丸を別室に連れて行って、止めた。梶山も、それに加わって、とにかく金丸を出さなかった。その時に、「いったん決起したからには、最後まで動揺しないで行くんだと言ったのは小沢だ」と言うんだ。その決断は、ほかの連中にはみられないもので、まったく揺らぎがなかった。それで、「やっぱり、小沢には非常時の決断において、自分はかなわないなと思った。俺の方が歳は上なんだけれど、こいつにはかなわないなと思った」と、梶山は述懐していました〉
創政会旗揚げ、経世会の分裂を最前線で取材した田崎史郎の『梶山静六 死に顔に笑みをたたえて』(講談社)には「その金丸を押しとどめたのは、梶山、小沢と羽田だった。彼らは口々に言った。『オヤジ(田中)と話すには、まずこちらが力を示すのが必要です。オヤジは力の強いものにはかえって弱い。ヤクザの出入りでも、出入りの前に弱い方が出て行くのは降伏と同じです』」と記されている。
大下英治の『田中角栄秘録』(イースト新書)は「小沢はその妥協案に猛烈に反発した。『金丸さん、出入りの前夜に、小さいほうが大きいほうを訪ねるのは、全面降伏と一緒ですよ。今更、オヤジに会うなんて冗談じゃない。もし、行くのなら棺桶を担いで喧嘩状を持って行ってください。それ以外なら、絶対にダメです』」というふうに小沢が猛烈に反論する様子を描いている。
創政会旗揚げは、小沢と梶山の2人の中堅議員が主導した戦後政治史に残るクーデター劇である。小沢以上に梶山の馬力、智謀が光る。田崎の代表作で、政治ノンフィクションの傑作である『竹下派 死闘の七十日』(文春文庫)には、その梶山が小沢を評価していた肉声がいくつも収められている。「冷酷無残になれる男だ。田中を切り、竹下を切った。後世畏るべし、いや、現世畏るべしだ」「俺と小沢の違いは、俺が頑張っても田中角栄止まりだが、小沢は田中を越えていく男だ」。
小沢はこのとき43歳。竹下も金丸も橋本も小渕も、師匠と断固決別する小沢の凄み、修羅場でもぶれない姿勢を目の当たりにしたのである。
「組んでよし、押してよし」
1985年12月、第2次中曽根第2次改造内閣で、小沢はついに大臣になる。自治相兼国家公安委員長に就任したのだ。初当選から丸15年、当選6回での初入閣となった。小泉進次郎は初当選から10年、当選4回で環境相に就いたことを踏まえると、小沢の初入閣は早くはない。
このころ、毎週開かれる国家公安委員会の会議で、財界のリーダーである平岩外四(東京電力会長。後に経団連会長)と接点を持っている。平岩はまもなく財界の小沢応援団「一誠会」をつくり、側面支援していく。財界とのパイプが細かった小沢にとってはありがたかった。