(篠原 信:農業研究者)
親子で挨拶に行きたい、と言われて自宅で待っていた。資格に合格し、進路も決まったので報告に来た、という話だった。その子はここ2、3年、不登校になっており、私が時折相手をしていた。そのお礼に来てくれたわけだ。
では私が何か特別なことをしたかというと、何にもない。何かためになる話をその子にしたかというと、そうでもない。
ただ私は、「赤の他人」だからこそできることをやろうと思っただけ。したことといえば、私が自宅でパソコン仕事や読書をしているその隣で、自習させたり本を読ませていただけ。別に勉強も教えない。ただ、同じ空間で一緒の時間を過ごしただけ。それでも、そうした時間がその子には決定的に重要だろうと考えていた。
第三者の海に飛び込む勇気
不登校になると、何が問題なのだろうか。進学? 将来、就職が難しくなる? もしかしたら、一生引きこもり? 親御さんは、大変強い不安に襲われる。それは当然だろう。なんとか解決したい、子どもが再び学校に通うようになってほしい、と願うのも、やむをえないことだ。ただ私が考えるに、不登校の最大の問題は「第三者の海」に飛び込む勇気が失われることのように思う。もしその勇気を取り戻せるなら、他の問題はたいしたことがない。
子どもは分かっている。いつか親は先立ち、自分が独り立ちしなければならないことを。親の庇護から離れ、赤の他人だらけの「第三者の海」に飛び込んで、生き抜く術を身につけなければならないことを。けれど、どうしても我慢できないことが起き、不登校になると、重要な装置が失われる。「第三者と関係を結ぶ」装置だ。