私は本音を聞かせてくれたことに謝意を示すと同時に、絶望した。たとえ専門機関に相談しても、「子どもにはこうした声かけをしなさい、こうした態度はとらないように」と、親を指導するだけだとしたら、結局はすべての責任を親に押し付けているだけ。親はそうでなくても自分を責めている。なんとかできる場面はなかったのか、と、自分で自分を追い詰めている。親は決して第三者になり得ない。なのに「第三者の海に飛び込め」というしかない。矛盾だ。

*写真はイメージです

 先日、農林水産省の事務次官だった方が息子を殺害し、実刑判決が下ったとの報道があった。この件に関し、複雑な思いを抱く人は多い。もっと早くに専門機関に相談できなかったのだろうか、という意見も多かった。しかしその専門機関も、子への接し方を指導するだけなら、親が自責の念を強めるだけに終わるだろう。専門機関が子どもに接したとしても、教師やカウンセラーは「お仕事」で付き合っているだけだと子どもにバレてしまう。第三者でない人間がいくら「第三者の海である学校に戻れ」と言っても、効果があるとはどうにも思えない。

 だから私は冒頭のように、「赤の他人」であることを最大限利用して、不登校のその子に声をかけ、同じ空間、同じ時間を過ごすようにした。赤の他人でも自分を受け入れてくれる人がいる。そうした体験を重ねることで、もう一度、「第三者の海」も楽しそう、と思ってもらえたら、と。

赤の他人だからできることがある

 今年の夏に、電車の中で大騒ぎする子どもを諭す場面をツイッターで紹介したところ、大変な評判を呼び、テレビでも紹介されたりした。

 それだけ、電車で騒ぐ子どもをどうしようもなくて困っている親御さんが多い証でもあるのだろうが、興味深かったのは、「赤の他人だからこそできる育児アシストの方法があったのか!」と反応してくれる人が多かったことだ。子どもがいないから子育てにはまったくタッチできない、でも子育てで何か役立てることがあるなら、と願っていたけれど、方法が分からなかった人たち。こうした人たちがたくさんいて、この人たちが敏感に反応してくれたことがよく分かった。

 この記事を読んだ人にもうひとつ、お願いをしたい。不登校の問題も、赤の他人であるあなただからこそできることがある。それは、親にも教師にも専門機関にもできないことだ。それは「第三者」として関わることだ。赤の他人しか、第三者にはなれない。その第三者が、不登校の子を気にかけ、ほんの少し一緒の空間、一緒の時間を過ごすことができたとしたら。

 その子は、親から何を言われるよりも、教師や専門家からどれだけ立派なお話を聞くよりも、特別な勇気を取り戻すきっかけを得ることができる。「第三者の海」に飛び込む勇気を。

 やがて親元を離れ、第三者と関係を結ばねばならないことを、子どもは重々承知している。けれど、学校に行けなくなってしまうと、その勇気がくじけてしまう。その勇気を取り戻すきっかけは、第三者だからこそ、赤の他人だからこそ提供できる。

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 現代の日本では、不登校の問題、引きこもりの問題が年々大きくなっている。その原因の一つは、子育てから第三者の関与を拒否してしまったことにあるのではないか。子育ては親がやるもの、学校や専門機関が解決するべきものとされ、第三者を遠ざけてしまったのではないか。その結果、さまざまな弊害が噴出するようになった。しかし、第三者を拒否してきた親も子も、すでに世代は変わった。そして今の親子は、第三者が関わろうとしない状況の中で孤立して苦しんでいる。

 第三者は、「電車で大騒ぎする子ども」にも、不登校の子にも、赤の他人だからこそできる子育てアシストがある。私たちの社会はもう一度、第三者も重要な教育アシストをしてくれる存在なのだということを、思い出すべき時期が来ているのかもしれない。

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