現代日本では、子どもが第三者と関係を結ぼうとすると、学校という場しか事実上存在しない(ように感じている)。もし学校に行けなくなってしまうと、第三者と関係を結ぶ方法が失われてしまう。親とは違う、全くの赤の他人と関係を結ぶにはどうしたらよいのか分からなくなってしまう。
学校の先生やカウンセラーももちろん親切に相談に乗ってくれる。しかしこの人たちは「関係者」だ。教師も専門家も「仕事だから」親切にしてくれる。しかしこの人たちは「関係者」であって、第三者ではない。お仕事で付き合ってくれるだけだと感じるから、「果たして自分は、第三者とうまくやっていけるのだろうか」という不安を消す力はない。
不登校になると、子どもが他人(第三者)と関係を結べる唯一の場所が失われる。そうなると、子どもは第三者とうまくやっていくことに自信を失う。
社会に出るということは、まさに赤の他人だらけの「第三者の海」に飛び込むという行為。なのに学校という「第三者の海」で関係を構築することに失敗したら。就職し、社会に出ても他人とうまくやれなかったらどうしよう。不登校の子どもは、こうした不安に囚われる。もう二度と、第三者と仲良くすることなんてできないのかな、と。
だからこそ、私が冒頭の子どもに対してとろうとしたポジションは「赤の他人(第三者)」だ。何の利害もない。その子がどうなろうと、損も得もない。そんな赤の他人の私が、「うちにおいで」と誘い、一緒の空間と時間を過ごす。ただそれだけ。
それだけなのだけど、たぶんそれによって、その子は「赤の他人も自分を受け入れてくれるんだ」と自信を回復し、「第三者の海」に飛び込む勇気を取り戻すきっかけが得られる。私は「赤の他人」であることを利用して、「第三者の海」にもあなたを受け入れる人はたくさんいるよ、ということを、無言のまま伝えようとしただけだ。
「第三者」がいない子育てのいま
現代日本では、教育は家庭と学校、あるいは専門機関だけが行うものだと考えられている。赤の他人、第三者が口を出すべきではないと思われている。そのために、不登校になると、その親子は袋小路に陥る。学校という場所を失うと、第三者と関わる場所を全部失ってしまう。このため、「第三者の海」に飛び込む勇気を子どもに取り戻してもらうためには、その勇気を奪った場所である学校に戻るしかない、という矛盾が生じる。