(佐藤 けんいち:著述家・経営コンサルタント、ケン・マネジメント代表)
「インパール作戦」は、先の大戦において悲惨な結果を招いた無謀な作戦として、75年後の現在でも繰り返し、繰り返し取り上げられている。
インパール作戦の目的は、「大東亜共栄圏」の西端に位置するビルマ北西部の山岳地帯から国境を越えて英領インドに侵攻し、連合国による中国国民党支援を目的とした「援蒋ルート」を遮断することを主目的とした、きわめてギャンブル的性格の強い作戦であった。
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「インパール作戦」は、もし成功していれば、きわめて大きな成果を上げていたことだろう。だが、そもそも作戦自体が無謀かつ杜撰なものであり、猛反対のなか強行された結果、想定をはるかに上回る大惨事となった。
日本側で投入された兵力は9万人、そのうち2万6000人が戦死し、戦病者が3万人以上にのぼっている。戦闘停止命令が出され、撤退が始まってからがさらに悲惨なものとなった。ジャングルの熱帯性疫病による病死者や食糧不足による餓死者が続出し、生きながら放置された兵士の肉体からはウジが湧き、街道沿いに放置された遺体は回収されることもなく白骨と化していった。インパール作戦について考えていると、正直いってノモンハン事件以上に気が滅入ってくる。
しかしながら、きわめて多くの犠牲者を出し悲惨な結果に終わったとはいえ、インパール作戦をまったく無意味だったと言い切ってしまうこともできない。「インド独立」という観点からは異なる側面が見てくるからだ。
インパール作戦の日本史における位置づけと、インド史および世界史における位置づけにはズレが生じているのである。この点は、前回取り上げたシンガポール陥落と同様であり、その延長線で考えてみる必要がある。
90年以上に及んだ「インド独立」のプロセス
インドが英国から独立したのは、奇しくも日本の敗戦からちょうど2年後の1947年8月15日のことであった。今年2019年には72周年を迎えている。
「インド独立」については、このコラム(「独立から70年!いよいよ始まるインドの時代」)でも取り上げているが、独立に至るプロセスについては、触れていなかった。まずは、植民地化されてから独立に至るまでの歴史を簡単に振り返っておこう。