日本美術を世界の中で位置づけて鑑賞すると、一体なにが見えてくるのか? 美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。今回は、日本美術が仰ぎ見て模倣してきた美術の「中心」の変遷を取り上げる。(全2回・後編/JBpress)
(※)本稿は『そのとき、西洋では──時代で比べる日本美術と西洋美術』(宮下規久朗著、小学館)の一部を抜粋・編集したものです。
中国の影響と「日本趣味」
古来、日本人が焦がれ、強く刺激を受けてきた中国・朝鮮の美術は、まさに日本美術を生み出した「古典」にほかならない。日本人はそれらを貪欲に受け入れ、学び、変え、「日本趣味」を見いだしてきた。
中国からの請来(しょうらい)品は「唐物」(からもの)と呼ばれて尊重されたが、その受容には時間的ずれがあった。唐時代の文物に憧れ、同時代性が顕著な正倉院宝物、室町時代当時から200年ほど前にあたる南宋時代の絵画・工芸を珍重した東山御物(ひがしやまごもつ)、中世から近世への転換期に茶の湯の感性によって再編された「名物」、江戸時代中期以降に新たな美として流入した文人画群など、その位相はじつに多様である。
こうしたずれは、日本美術が単に同時代の中国の流行を追ってきたのではなく、過去の美や古典の中から選択して受容してきたことをも意味している。日本が主体的に選択した美に、古代から近代に至るまで一定の趣向の反映があったとすれば、それこそが「日本の趣味」ということになるだろう。
移り変わる美術の「中心」
日本美術はつねに中国の圧倒的な影響下にあった。しかし、平安時代や江戸時代に独自の展開を遂げ、日本美術のアイデンティティーを確立した。日本に伝わった中国美術を通じてその影響を検証し、日本美術を東アジア美術史のなかに位置づけることは、日本美術を考えるうえでもっとも重要な視点である。日本美術にとって、こうした請来美術の存在はきわめて大きかった。それは規範であり、乗り越えるべき目標であり、時に反発の対象にもなり、つねに日本の美術を領導してきたのである。それらはきわめて大事に扱われたため、中国には残っていない、あるいは忘却された重要な作品も日本には数多く現存する。