なぜといって、天皇は終身制だから。ガンによる手術を受けても、退位するという選択肢は昭和天皇の念頭にはありませんでした。

 仮に摂政などに相当する存在を置くとしても、自分は生きてあるかぎり天皇であり続けねばならないのは宿命だと、昭和天皇が考えていた決意は、團藤重光教授なども再々耳にしています。

 果たして、その翌年の8月、こんな体調になっても昭和天皇は、全国戦没者追悼式に出席します。しないわけにはゆきません。

 本人も大変だったと思いますが、周りでケアする人たちは、それ以上に神経をすり減らしたに違いありません。

 果たしてこの追悼式を終えたのち、天皇は「大量吐血」、ケアを担当した伊東貞三侍医によると同時に下血もしていたとのことです。

 そのような体調になっても、天皇は天皇であり続けねばなりません。「天皇終身制」が原則と、誰もが思い込んでいましたから・・・。

 昭和63年の秋冬、日々のニュースは天皇の「下血」情報などを報じ続け、大晦日には一度、天皇の呼吸が止まります。

 「昭和64年は来ない」と侍医も看護婦(当時の表記に従います)も覚悟しましたが、元来のバイタルが強かったのでしょう。昭和天皇は息を吹き返し、あと1週間、生き続けました。

 寝たきりで、すでに何かできる状態ではない。意識もない。それでも天皇は天皇だった。なぜなら天皇終身制であるから・・・。

 こういう状況を、間近に、つぶさに、また「いつかくる道」として覚悟をもって見つめ続けていたのが、明仁皇太子であり、夫人の美智子皇太子妃(ともに当時)であったわけです。

 すでに東宮時代から、明仁天皇夫妻の意識の中には、これを繰り返してはいけない、という明確な意識がありました。