前回、志村五郎さんに寄せて記した原稿は、思いがけず多くの読者に読んでいただけたようで、個人的に激励のメールなどもいただいたりした。深くお礼を申し上げたい。

 そこで前稿では触れなかった内容にも踏み込んで、続編を記したい。

 今回は最初に、読書案内から始めよう。志村さんの自伝的なエッセー集「記憶の切絵図」(筑摩書房)と、その続編「鳥のように」(筑摩書房)の2冊である。

 読む人によって、この2冊から受ける印象は様々であろう。

 私にはこの2冊から、志村さんがどうしても伝えたいと思った第2次世界大戦後の「進歩的知識人」の嘘や、彼らが持っていたソビエト連邦や北朝鮮などへの「無謬神話」の愚かしさ、また60年安保を契機として、志村さんが東京大学に見切りをつけて職を辞し、1年だけ大阪大学に勤務したのち米国に去ってしまった理由が、手に取る様に解るように思われた。

 もちろんそれは、私自身の偏見による読後感に過ぎないだろう。

 ただ、かつて同じ大学に学生として学んだ後、教官として20年以上、大学を中から見て来た一個人として、志村さんの批判は、襟を正して聞くべき本質を数多く含んでいると正味で思っている。そうした点について記してみたい、

21世紀の「坊っちゃん」志村五郎

 志村五郎氏は1930年2月に静岡県浜松市で生を受けたが、そこでの記憶は彼になく、実際に育ったのは現在の東京都新宿区、昭和初期は東京市淀川区の角筈、大久保界隈である。

 角筈と書いて「つのはず」と読む。現在では地名としては残っておらず「西新宿4丁目」などと味気ない行政区画になっている。この界隈はいわゆる「山の手」で、漱石こと夏目金之助(1867-1916)の生まれ育った土地でもある。

 「記憶の切絵図」を手にした人は、この地で育った志村さんの文体から、もし漱石が生きていたなら、こんなスタイルで書いたかもしれないと思うのではないだろうか。

 実際、志村さんの文は目立たぬ随所に彫琢が施されている。例えば・・・

 「切絵図」というのは江戸末期に出された、「江戸市中を三十ばかりの地域にわけて、一地域の案内図を四十五センチ四方くらいの紙に木版で刷ったもの」(同書p.9-10)で、「近吾堂大久保戸山高田辺之図」(1851)と金鱗同尾張屋版牛込市ヶ谷大久保絵図(1854)の中に「志村小三次」として彼の5世の祖の名が記されている・・・といった話から書き出されている。

 だが、読み進めるうちに「記憶の中にある切絵図」と「記憶」を「切絵図」状に読み継いでいくという、2つの含意の中を揺れる志村さんの心憎いレトリックに気がつくだろう。万事そんな具合で、一文一文ウイットに富んで読者を飽きさせない。