田原 大島さんは最初はフジテレビでテレビ番組を作っていたんですよね。なぜフジテレビを辞められたんですか。

フジテレビを辞めた理由

大島 そもそも僕はドキュメンタリーを作りたくてテレビの世界に入ったんです。ところが、だんだんとその希望がかなわない状況になってきたんです。

田原 どうして?

大島 そもそもドキュメンタリー番組の枠もほとんどありませんでした。フジテレビには、是枝裕和さんや森達也さんを輩出した『NONFIX』というドキュメンタリー枠があるんですが、僕もこの番組に携わりたくてフジテレビに入ったんです。

 その念願がかなって、何本かドキュメンタリー作品を作ることが出来たんですが、放送時間が深夜帯ですし、会社からしたら決して儲かる番組じゃない。そこで、「深夜の名誉枠みたいなドキュメンタリーなんか作っていないで、ゴールデン帯の情報番組やバラエティーをやってほしい」という要請が、当然ながら出てきたんです。仮にドキュメンタリーを続けられたとしても、もう現場のディレクターではなく、プロデューサーとして関わることしかできない。そんな状況が見えてきたんですね。

田原 なるほど。

大島 新:映像ディレクター、株式会社ネツゲン代表取締役。1995年、早稲田大学を卒業し、フジテレビに入社。「NONFIX」「ザ・ノンフィクション」などドキュメンタリー番組のディレクターを務める。1999年フジテレビ退社、フリーディレクターとして活動した後、2009年に株式会社ネツゲンを設立、代表取締役に。MBS『情熱大陸』、NHK-BS『英雄たちの選択』などテレビ番組を制作する一方、ドキュメンタリー映画の制作にも乗り出す。監督作品に『シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録』(第17回日本映画批評家大賞ドキュメンタリー作品賞受賞)、『園子温という生きもの』、プロデュース作品に『カレーライスを一から作る』『ラーメンヘッズ』『ぼけますから、よろしくお願いします。』がある。

大島 実際に僕と同期の、現在50歳手前くらいの連中はみな、ワイドショー系の番組のチーフプロデューサーになったり、それ以上の立場に就いたりしています。自分で取材をするなど、番組作りの前線にタッチしている者はいません。

 当時の僕も、次第にディレクターを続けられない立場になりつつありました。だから「外に出て、自分の腕だけで食べていきたい」というのが、自分にとっては自然な流れでした。当時フジテレビは「日本一給料の高い会社」と言われていましたので、「これ以上給料が上がると踏ん切りがつかなくなるかも知れない。だったら辞めちゃったほうがいい」ということで、30歳直前に退社しました。

田原 自分でドキュメンタリーを撮りたくてフジテレビを辞めたと。フリーになって後悔しなかったですか?

大島 それはなかったですね。「1本いくら」っていう世界で仕事をしていく中で、それなりに自分でも満足がいくものが作れるようにもなり、評価もされるようになってきました。それが自分が最も望んでいた道でしたから。

 それに、フジテレビ時代にはどうしても「大島渚の息子だから、仕事の評価も下駄をはかせてもらっているんだろう」と思われていたりもしたんですが、フリーになってようやくその呪縛から解放されたように感じましたね。