10月16日。勝谷復帰記念の『血気酒会』をやろうということになり、私の事務所にてライブ配信を行った。番組中は、まだ話ができていたが、その前後は蚊の鳴くような声で、歩くのもフラフラだった。「終わったらみんなで『にじゅうまる』(※近くの呑み屋)に行って一杯やろう」と言うので、「はあ? 酒は飲んじゃダメだろう。飲まなくても食べれば良いよ」というと、「じゃあいい、行かない」とひとりマンションに帰ってしまった。
毎朝の日記はどんどん壊れていき、10月19日の日記は、ほとんど暗号としか思えないようなものだったため、私は、「もうダメだ」と休載を決めた。
再入院、そして強制退院
勝谷は、10月20日に尼崎で講演があったので、19日に移動して実家に入った。講演はなんとか成功に終わったが、そのまま実家にいて弟家族に面倒をみてもらうことになった。
また禁酒生活に入ったので、次第に元気にはなってきたものの、ほとんど食べない状況は変わらず、実家では毎食しっかり出してもらっていても、酒がないと食べようとしなかった。そして、腹水の状態が悪くなる一方だったため、尼崎中央病院の好意で一時的に入院して腹水を抜いてから、慶応大学病院に再入院となった。
慶応大学病院にいれば良くなるだろうということを前提に、引き続き依存症治療の施設への入所を検討し始めた。しかし、肝臓に疾患があり、本人が絶対に自分は依存症ではないと言い張っている状況では、なかなか入所させてくれる機関は無かった。
肝臓の数値は良くなってきて、再び退院の日程を検討し始めた矢先、病院から連絡が来た。勝谷の病室から酒の空き瓶が大量に見つかったのだ。勝谷は、マネージャが業務で海外に行っていたときに、隠れて自分でコンビニに行って買ってきていたらしい。これには関係者一同大きなショックを感じていた。
11月23日。再び実家に戻った勝谷の状況はあまり良いものではなく、そのまま再度尼崎の病院に入れてもらったが、すでに安心できるレベルではなかった。特に失見当識というアルコール性の認知症のような症状が進み、自分が置かれている状況を正確に把握できないようだった。
急激な悪化。そして死
それでも、酒を断っていればなんとか回復に向かうだろうと、弟やマネージャ、高校時代の友人たちがその後入れるべき施設を検討していた11月26日。病院より「状態が思わしくない」という連絡が来た。人工呼吸器をつけ、できることはすべてやるという姿勢で不眠不休の対応をしていた。
翌27日。勝谷の状況は悪くなっていくばかりで、改善が見られなかった。尿は全く出ず、意識はすでに無いような感じで目も見えてはいないだろうということだった。
28日午前1時48分。勝谷誠彦は57年の生涯を閉じた。急性肝不全だった。
依存症の怖さ
勝谷は決して馬鹿な男ではない。アルコールだけではなく、薬物やパチンコなどの依存症患者も多く見てきている。自分はアルコール依存症だということを認識できていなかったわけではなかった。
しかし、近くで見ていると、呑むのが良いとか悪いとかよりも、「眼の前には酒があり、それは飲むものだ」という意識しか無かった。まわりでいくら止めても「酒は飲むものだ」なのだ。「飲まない」という選択肢はない。「食事のときには酒がある」「酒のない喫茶店には入らない」「蕎麦屋であっても酒があれば飲む」「飛行機の待ち時間にも酒を飲む」となる。良い悪いではなく、たとえ「死ぬぞ」と言われても、酒が手に入れば、必ずそれは「飲むもの」だったのだ。まるで酒を飲むためだけに造られた、からくり人形のようだった。

アルコール依存症の対策は二通りある。ひとつは然るべき施設に入所し、3ヶ月のプログラムを受けるというもの。もうひとつは、シアナミドなどの抗酒剤を自宅で毎朝服用するというものだ。しかし、入所するにも自宅治療を行うにも、本人が「自分は依存症だ」という意識が必要となる。それが無ければ入所したところで絶対に回復できない。
依存症患者が、自分は依存症であるということを認めないのは理解できる。しかし勝谷にとっては、少なくとも依存症であるという自覚が必要だった。その自覚がなければ、仮に一時的に断酒に成功したとしても、必ずまた飲み始める。なんとかそれの自覚を持たせようとしたが、叶わなかった。勝谷が特異な人格を持っていたとは思わないが、テレビやラジオからも伝わってくるように、常人ではなかったと言える。
では、いったい勝谷の何がそうさせてしまったのか。これは依存症全体に共通する悩みと苦しみでもあるのだ。
~編集部より~
メールマガジン『勝谷誠彦の××な日々。』の配信元、株式会社世論社の代表取締役・高橋茂氏が勝谷氏の最期と思い出を綴る3部作です。続けてお読みください。