(文:首藤 淳哉)
一般に、本は読めば読むほど物知りになれると思われがちだが、実際は逆だ。読めば読むほど、世の中はこんなにも知らないことであふれているのかと思い知らされる。その繰り返しが読書だ。
「ディアトロフ峠事件」をぼくはまったく知らなかった。これは冷戦下のソヴィエトで起きた未解決事件である。
マイナス30度の闇の中、散り散りに
1959年1月23日、ウラル工科大学の学生とOBら9名のグループが、ウラル山脈北部の山に登るため、エカテリンブルク(ソ連時代はスヴェルドロフスク)を出発した。
男性7名、女性2名からなるグループは、全員が長距離スキーや登山の経験者で、トレッキング第二級の資格を持っていた。彼らは当時のソ連でトレッカーの最高資格となる第三級を獲得するために、困難なルートを選んでいた。資格認定の条件は過酷なものだったが、第三級を得られれば「スポーツ・マスター」として人を指導することができる。彼らはこの資格がどうしても欲しかったのだ。
事件は出発から10日後の2月1日に起きた。この日、一行はホラチャフリ山の東斜面にキャンプを設営し(ホラチャフリはこの地に暮らすマンシ族の言葉で「死の山」を意味する)一夜を過ごそうとした。ところが、その夜になにかが起きたのだ。
わかっているのは、何らかの理由でメンバー全員がテントを飛び出し、マイナス30度の闇の中に散り散りに逃げていったということ。後に9名の遺体が発見されたのは、テントから1キロ半ほども離れた場所だった。彼らはろくに服も着ておらず、靴もはいていなかった。検死の結果も不可解だった。6人は低体温症で死んでいたが、残る3人は頭蓋骨を骨折しており、女性メンバーのひとりは舌がなくなっていた。さらに、遺体の着衣からは異常な濃度の放射線が検出されたのだ。