土屋 実際にオンエアされた?

田原 うん。『こんばんは21世紀』という1時間半のドラマでした。

土屋 入社当初からメチャクチャ過激だったんですね。

『電波少年』に影響を与えた映画『原子力戦争』

田原 そもそもなんで僕が12チャンネルに入ったかと言ったら、きっかけは岩波映画時代に、当時の日本教育テレビ(現テレビ朝日)の女性ディレクターから、子供向け番組の構成を頼まれたことなんです。

 それで打ち合わせに行って、その場の思い付きでいろいろしゃべったら、「それでいきましょう」と言われて決まっちゃった。映画は、企画が決まるまで2カ月も3カ月も会議をするわけね。

土屋 「テレビはこのノリか」と。

田原 いや、それどころじゃなかった。「じゃあ、いつまでに台本を書きましょうか」と聞いたら「今日中に書いて。本番は明後日なの」だって。テレビの世界ってこんないい加減なのか、これなら好きなことが何でもできそうだ。そう感じたから僕はテレビの世界に行こうと思った。

 現に、移ってみたらやっぱりテレビは良かった。特に僕が入ったのがテレビ東京でしょ。できたばかりだから、どこよりもいい加減で、何でもできた。

土屋 そのことが、今の例えば『池の水ぜんぶ抜く大作戦』みたいな番組につながってるんですよ。つまり、当時の東京12チャンネルって、日本テレビとかNHKと比べたらお金がないから、フィルムがそんなに使えない。

田原 お金もない。才能もない。それから何より、視聴者に全く相手にされてない。

土屋 今のMXテレビより、もっと疎外されている感じでしたよね。

田原 「テレビ番外地」と言われていましたからね。で、制作費は日本テレビのたぶん4分の1か5分の1くらい。

土屋 そうですね。だから余分なフィルムは回せないんですよね。

 これは僕なりの解釈ですけど、制作費に余裕がある局のドキュメンタリーの手法は、何かが起きるまでフィルムを回し続けられる。そこで我慢して待つことができるわけです。だけど、お金がなかった12チャンネルの田原さんはフィルムに制限があるから、カメラを構えた瞬間に自分たちから何かを起こし始める。そうじゃないですか。

土屋敏男:日本テレビ放送網 日テレラボ シニアクリエイター、一般社団法人1964 TOKYO VR代表理事。『進め!電波少年』や『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』など多くの人気番組を手掛ける。昨年、萩本欽一を主演に据えた初監督映画『We Love Television?』を公開した。

田原 そう。まず相手を挑発する。相手を怒らせるところからカメラを回すわけ。

土屋 ですよね。その「待つ」のではなく「起こす」っていう手法が、僕がやった『進め!電波少年』のスタイルと全く同じなんですよ。局は違いますけど、完全に同じ系譜です。

田原 僕は土屋さんの『電波少年』にはびっくりした。

土屋 観てもらっていたんですか?

田原 もちろん、ほとんど毎回見ていましたよ。だってアポなしだよ。アポなしでインタビューなんて、むちゃくちゃだよ。プライバシーの侵害だよ(笑)。

土屋 でもその元は田原さんなんですよ。実は僕、学生時代に田原さんが原作を書いて、黒木和夫さんが監督した映画『原子力戦争』(1978年)を見て衝撃を受けたんですよ。本物の福島第一原発のゲートのところでロケしていて。

田原 主演の原田芳雄が喧嘩するシーンね。

土屋 原田さんがアポなしで強硬に突っ込もうとして、実際の守衛と揉めるんですよね。あれを学生時代に見て、すごく印象に残っていたんです。それから10年以上が過ぎて、「あの絵は面白いな」と思って作った番組が『進め!電波少年』だったんです。

田原 あの時は黒木監督に、「とにかく警察に捕まるようにやれ」って言っていたんです。それで、まず原発の入り口で守衛さんとケンカさせようとした。ところが意外にこのケンカがすぐに収まっちゃった(笑)。

土屋 田原さんが12チャンネル時代からやっているスタイルって、待つのではなく、カメラを状況を変える加害者であることを意識し、確信犯的にその場で事件を起こしていくという手法ですよね。

 田原さんがやり、僕がやり、それから例えば今の『世界の果てまでイッテQ!』がやっているカメラ加害者型の手法って、ある種、日本のテレビの独特のやり方なんですよね。『ゆきゆきて、神軍』『全身小説家』の原一男さん、アメリカではマイケル・ムーアなんかがその系譜に入ると思います。

田原 原さんは僕のアシスタントをしていたしね。

土屋 そういうつながりですものね。