昨年(2017年)の秋頃に、友人から『佐野学著作集』全5巻が贈られてきた。佐野学(さの・まなぶ、1892~1953年)といってもほとんどの人が何者かを知らないだろう。戦前、日本共産党が非合法政党だった時代に、最高指導部の一員だった人物である。今、この著作集を読み進めている。
佐野学は、あの後藤新平の女婿、佐野彪太の弟であり、東大法学部卒業後、後藤の伝手で満鉄の嘱託社員となっていたが、荒畑寒村(日本共産党創立時のメンバー)の誘いにより共産党に入党している。その後、1929(昭和4)年に上海で逮捕され、32(昭和7)年に治安維持法違反で無期懲役の判決を受け、入獄する。翌年、一緒に入獄していた鍋山貞親(なべやま・さだちか)と共に、「共同被告同士に告ぐる書」発表し、共産党を離党する。
当時の日本共産党は、1919年にレーニンの提唱によって創立された「コミンテルン」(共産主義インターナショナル)の日本支部という立場であった。コミンテルンへの加入条件というのは、大変、厳しいものであった。1920年に採択された「共産主義インターナショナルへの加入条件」によれば、「現在のような激しい内乱の時期には、党がもっとも中央集権的に組織され、党内に軍隊的規律に近い鉄の規律がおこなわれ、党中央が、広範な全権をもち」とか、「すべての党は、反革命勢力にたいするたたかいで各ソビエト共和国を献身的に支持する義務がある」などと定められていた。