石井 ただ、それだけを聞くと渋沢の“倫理的”な面が際立ちますが、一方で彼は非常に“合理的”で、利益を重視する側面を持っていました。
──どういったことなのか、詳しく教えてください。
石井 彼の功績として大きいものに、大阪紡績会社の成功があります。ここでも渋沢は相談役という地位にあり、実際の経営は山辺丈夫という有能な技術者などに任せていましたが、長きにわたって渋沢は経営の枢要に関わり続けたといわれています。そして、同社の経営においては、合理的、革新的な判断が多く見られました。
たとえば、最初はイギリスのミュール機という紡績用の機械を導入するのですが、その後にアメリカのリング機というものに魅力を感じると、そちらの導入を試み、試験生産ののちにリング機の導入を増やしていきました。1892年に大阪紡績では大きな火災が起きてしまいますが、その復旧を通じてほぼリング機に切り替えられていきます。
当時、アメリカでは熟練労働者の少なさからその賃金が高かったため、労賃の安い女性や子どもが扱える機械の開発が進んでいたんです。日本でも同じように熟練労働者の不在という問題がありました。工場の機械を途中で一新するのは大きな決断です。しかしながら、合理的な技術選択に基づき、それが可能となりました。
また、原料の綿花についても、安い輸入品を使い始めました。これも当時は画期的なことでした。そういった合理的かつ革新的な判断が奏功し、大阪紡績会社は成功します。そして、それを見た数多くの紡績会社が後に続き、その後、産業革命におけるリーディングセクターとなるのです。
──あくまで、実業家としての冷静な視点を持っていたんですね。
石井 はい。さらに重要なのは、公益を追求する「倫理」と、合理的な判断の根底にある「利益」の両立をテーマにしていたことです。それが、近年注目される2つめの理由につながります。彼はこれを「論語と算盤(そろばん)」と表現しました。
──どういった考え方なのでしょうか。