石井 日本において株式会社制度が発達していくのは、明治期に入ってからです。渋沢は初期段階からその普及に大きな役割を果たしたといえます。財閥ものちに傘下会社の多くを株式会社化していきますが、本社と子会社との間の株式所有にもとづく強い結びつきを前提とする閉鎖的なものでした。この組織のあり方をコンツェルンといいます。
このように、財閥については閉鎖的だったものの、一方で非財閥が形成する株式会社も発達していました。ただ、とにかく財閥が急成長している時代であり、彼らが大きな事業経営体を作って、経済の中心にいたのは事実です。
しかし渋沢は、いくつもの企業を成功させながらも、財閥の路線とは一線を画し、非財閥系の株式会社に関わり続けた稀有な存在です。もしも渋沢がいなければ、非財閥の企業の成長はここまで大きくなかったかもしれません。特にインフラ関連は、非財閥系の企業が多く、そこに貢献しているのは間違いないと言えます。
実際、彼は実業家として早い段階で成功します。第一国立銀行や大阪紡績会社(現・東洋紡)といった大企業の立ち上げがその例です。しかし、あくまでこれらの会社を一族で固めず、自分のカラーを濃くしませんでした。当時の財閥とは対照的に、一貫して開放的な経営を続けたのです。
生涯500の企業に関わった、渋沢の人脈作りと理念
──生涯で500もの企業に関われたのは、必ずしも自分が経営の主導権をすべて握ろうとしなかったからでしょうか。
石井 そうですね。彼が経営の指揮をとるのではなく、信頼を置ける人に経営を任せるケースは多数ありました。たとえば、浅野セメント(現・太平洋セメント)の経営で知られる浅野総一郎もその一人です。こうしたビジネスパートナーたちが、渋沢の多忙な活動を支えていたといえるでしょう。
このように、渋沢は経営面では自分が信頼する有能な人を見極めて巧みに配置していきました。自分のカラーを強くせず、人的ネットワークを作って広げていったのも特徴です。そして、それだけの人的ネットワークを作れたのも、渋沢の凄さだと思います。